8  Tl 置換 ― 予測は当たり、期待は外れた

Co³⁺ を増やすことに成功したのに、なぜ磁性は弱くなったのか。
この章で、本書の物語は曲がる。

1 予測を実験にかける

前章の終わりに、三段の推論を立てた。大きい Tl³⁺ を入れれば Co が狭い 8b に押し込まれて Co³⁺ が増える。Co³⁺ が多ければ真空加熱での変換量が大きくなる。変換量が大きければ室温強磁性は強くなる。

その実験が行われた。

この章で読む論文

A. Hagiya, T. Asakura, T. Sekiya, T. Kataoka, K. Komatsu, K. Sato,
“Thallium substitution effects on Co valence states and room-temperature ferromagnetism in Co-doped In₂O₃: Experimental and machine-learning insights”,
J. Magn. Magn. Mater. 630, 173450 (2025).

組成は In₁.₉₋ₓTlₓCo₀.₁O₃、\(x\) は 0 から 0.6 まで。前章の Al 系列とまったく同じ設計で、置換元素だけを入れ替えている。同じ作り方、同じ測定。だから結果は直接比較できる。

2 まず、構造が保たれていることを確かめる

議論の前に、試料が期待どおりのものかを確かめておく必要がある。

粉末 X 線回折では、\(x = 0\) から \(0.6\) まで全域で bixbyite 単相が保たれていた。リートベルト解析の信頼度因子は \(R_{wp} = 4\)〜11 %、適合度は 1.3〜2.6 である。余計な回折線は現れていない。

格子定数は Tl 量とともに直線的に膨張した。\(x = 0\) で 10.120 Å、\(x = 0.6\) で 10.239 Å。全体で 1.2 % の膨張である。これは Vegard 則的な振る舞いで、In³⁺(0.800 Å)より大きい Tl³⁺(0.885 Å)が入ったことと整合する。

第2章を思い出す

「単相であり、余計な回折線は無い」――この記述は、第2章で扱ったとおり、金属コバルトのクラスターが無いことの証明ではない。0.081 wt% 程度のクラスターは、この測定では見えない。

ただし本章の議論には、この限界はあまり効かない。以下で見る変化は「Tl 量を変えたときに何がどちらへ動くか」という相対的な話であり、絶対量の起源を問うものではないからである。証拠の限界を知ったうえで、それが効く議論と効かない議論を区別することが大切である。

格子が膨張したことは、Al 系列との重要な違いである。Al 系列では格子定数が \(10.11 \pm 0.01\) Å で置換量によらなかった。Tl 系列では動く。この差は第9章で効いてくる。

3 予測どおり、Co³⁺ は増えた

XPS で Co 2p 内殻を測ると、狙いどおりの結果が出た。図 1 の上のパネルである。

図 1: この図が言うこと:Tl を増やすと Co³⁺ の割合は狙いどおり上がる(上)。ところが室温強磁性は下がる(下)。予測は前半だけ当たった。図:著者作成(Hagiya ら, J. Magn. Magn. Mater. 630 (2025) 173450, Table 3)。

Tl のない試料で 0.38 だった Co³⁺ の割合は、Tl を増やすにつれて上がり、\(x = 0.4\)0.78 に達する。ちょうど 2 倍である。

機構の読みも立つ。大きい Tl³⁺ が 24d を占め、Co が 8b に押し出される。あるいは、Tl³⁺ の周りで局所的な電荷のつり合いを保つために Co²⁺ が Co³⁺ へ酸化される。どちらの読みでも、Co³⁺ が増えるという結論は同じである。

第一段は当たった。大きいイオンを入れれば Co³⁺ が増える。

4 ところが、磁性は弱くなった

図 1 の下のパネルが、この本の山場である。

室温強磁性の大きさは、Tl のない試料で 0.064 \(\mu_{\mathrm B}\)/Co、\(x = 0.1\)0.019\(x = 0.2\)0.010 である。単調に下がる。\(x = 0\) から \(x = 0.2\) までで 6.4 分の 1 になった。

Tl をさらに増やした試料では、室温強磁性そのものが測定できていない。加熱前の磁化曲線は 300 K で完全に直線的で、残留磁化がなく、常磁性としか言いようがない振る舞いだった。

Co³⁺ は狙いどおり 2 倍に増えた。そして室温強磁性は 6 分の 1 に減った。予測の前半は当たり、後半は正反対に外れた。

念のため、比較の土台が揃っていることを確認しておく。組成の作り方は Al 系列と同じ、測定条件も同じ、Co の量は 0.1 で固定、構造は単相。動かしたのは置換元素の種類と量だけである。だから、この食い違いを「試料が違うから」で片付けることはできない。

「室温強磁性の大きさ」という言葉に二つの数がある

本章で使った 0.064 \(\mu_{\mathrm B}\)/Co は、磁化曲線から直接読んだ飽和磁化である。同じ論文には、同じ試料について 0.028 \(\mu_{\mathrm B}\)/Co という別の数も出てくる。こちらは磁化曲線に模型を当てはめて得られる模型のパラメータであって、直接読んだ値ではない。

本書では、観測された強磁性の大きさを言うときは常に直接読んだ値を使う。模型のパラメータのほうは第9章で、模型の中の量として扱う。測定から直接読める量と、模型を通して初めて出る量は、同じ名前で呼ばれていても別物である。

5 二つの系列を同じ図に置く

食い違いをもっとはっきりさせるには、Al 系列と Tl 系列を同じ座標に置けばよい。横軸に Co³⁺ の割合、縦軸に室温強磁性をとる。図 2 である。

図 2: この図が言うこと:Co³⁺ の割合と室温強磁性のあいだに、単調な関係はない。無置換の試料が最も強く、Al を入れても Tl を入れても弱くなる。図:著者作成(Hagiya ら, J. Magn. Magn. Mater. 630 (2025) 173450, Table 3 の 6 点)。

6 点のうち、最も強い室温強磁性を示すのは何も置換していない試料(Co³⁺ 割合 0.38、RTF 0.064)である。そこから左(Al 側、Co³⁺ が減る)へ行っても、右(Tl 側、Co³⁺ が増える)へ行っても、強磁性は弱くなる。

さらに具体的に見よう。置換量が同じ \(x = 0.1\) で比べると、

試料 Co³⁺ 割合 RTF (\(\mu_{\mathrm B}\)/Co)
In₁.₈Al₀.₁Co₀.₁O₃ 0.29 0.038
In₁.₈Tl₀.₁Co₀.₁O₃ 0.54 0.019

Al のほうが Co³⁺ は少ないのに、室温強磁性は2 倍強い。もし「Co³⁺ が多いほど強い」が正しいなら、この順序は逆でなければならない。

6 点全体で順位相関を計算すると −0.03 である。ゼロと言ってよい。Co³⁺ の割合と室温強磁性のあいだに、単調な関係はまったく無い

Co³⁺ の量は、室温強磁性の強さを決める変数ではない。一つの変数で設計するという発想が、ここで破綻した。

6 破綻をどう受け取るか

ここで立ち止まって、何が起きたのかを整理する。

前章の三段の推論のうち、

  1. Tl を入れれば Co³⁺ が増える → 当たった
  2. Co³⁺ が多ければ変換量が大きくなる → 部分的に当たった(ただし後述)
  3. 変換量が大きければ強磁性は強くなる → 外れた

第二段については、実は微妙な事実がある。Tl 系列では、真空加熱しても Co³⁺ が完全には消えない。正味の変換量は \(x = 0.2\) で最大(約 0.40)だが、加熱後もすべての組成が混合価数のまま残る。Al 系列でほぼ完全な還元が起きたのとは対照的である。

つまり、Tl³⁺ がまわりにいると Co³⁺ が安定化されて、還元されにくくなっている。加熱前に Co³⁺ を増やしても、そのぶん還元されるとは限らなかった。

だが、それだけでは説明として足りない。\(x = 0.2\) の試料は正味の変換量が最大なのに、室温強磁性は \(x = 0\) の 6 分の 1 しかない。変換量が多いのに磁性は弱いという組み合わせが実際に出ている。第三段の破綻は本物である。

これは失敗ではない。一変数の設計論が、多変数の物理に置き換わった瞬間である。価数のほかに、少なくとももう一つ、強磁性を左右する変数がある。

前章から本章にかけて動いたものを並べてみると、候補が浮かんでくる。Al 系列では格子定数が動かなかった。Tl 系列では 1.2 % 膨張した。格子が広がれば、Co どうしの距離も、酸素空孔のまわりの電子の広がりも変わる。第6章で得た「つなぐ担い手」の描像に立てば、これは無視できない変化である。

その線を追うのが次章である。

7 小課題

小課題 8-1:予測・結果・言えることを分ける

第7章の末尾で立てた予測と、本章の結果を、次の三行にまとめよ。

  1. 予測は何だったか(一文)
  2. 実際に何が起きたか(一文、数字を入れる)
  3. この一つの実験から言えることは何か(一文、言いすぎないこと)

解答例を見る

  1. 予測:In³⁺ より大きい Tl³⁺ を入れれば Co³⁺ が増え、真空加熱での Co³⁺→Co²⁺ 変換量が増えて、室温強磁性が強くなるはずである。

  2. 結果:Co³⁺ の割合は 0.38 から 0.78 へ 2 倍に増えたが、室温強磁性は 0.064 から 0.010 \(\mu_{\mathrm B}\)/Co へ 6.4 分の 1 に減った。

  3. 言えることCo³⁺ の量は室温強磁性の強さを一意に決めない。 価数のほかに、少なくとも一つ、強磁性を左右する変数が存在する。

3 について、言ってはいけないことも確認しておく。「Co³⁺ を増やすと強磁性が弱くなる」とは言えない。Al 系列では Co³⁺ を減らしても弱くなっているからである。この実験が示したのは因果の向きではなく、単調な関係が無いことである。

小課題 8-2:次に何を測るか

Co³⁺ の量以外に強磁性を左右する変数がある、と分かった。その変数を突き止めるには、次にどんな測定または試料をつくればよいか。一つ提案し、「その測定でどちらの答えが出たら何が言えるか」まで書け。

ヒント:Al 系列と Tl 系列で、Co³⁺ の量以外に何が違っていたかを思い出す。

解答例を見る

Al 系列と Tl 系列の最大の違いは、格子定数が動くかどうかである。Al では 10.11 Å で変わらず、Tl では 1.2 % 膨張した。

提案の一例:格子定数を変えずに Co³⁺ だけを増やす試料をつくる。たとえば In³⁺ とほぼ同じ大きさで、価数や電子親和力が違う元素を選ぶ。あるいは、Tl 系列に静水圧をかけて格子を元の大きさに戻し、その状態で磁化を測る。

  • もし格子を戻したときに強磁性が回復するなら、効いていたのは格子の広がり(Co–Co 距離や電子の重なり)である。
  • 回復しないなら、効いていたのは格子ではなく、Tl そのものがもたらす別の効果(電荷の補償、酸素空孔の生成しやすさなど)である。

どちらの結果が出ても、変数が一つ絞れる。これが「反証可能な次の一手」の形である。

なお、実際の 2025 年の論文は、この問いに別の角度から迫っている。磁化曲線そのものを模型で読み直すのである。それが次章の中身になる。

第8章で言えること

In₁.₉₋ₓTlₓCo₀.₁O₃ は \(x = 0\)–0.6 で bixbyite 単相を保ち、格子定数は 10.120 Å から 10.239 Å へ直線的に膨張する。XPS の Co³⁺ 割合は 0.38 から 0.78 へ増え、室温強磁性は 0.064 から 0.010 \(\mu_{\mathrm B}\)/Co へ減る。Al 系列と合わせた 6 試料では、Co³⁺ 割合と室温強磁性の順位相関は −0.03 である。

大きい Tl³⁺ が 24d を占めるか、局所的な電荷のつり合いを通じて Co²⁺ を酸化することで、Co³⁺ が増える。しかし Tl³⁺ の存在は Co³⁺ を安定化し、真空加熱でも完全には還元されない。Co³⁺ の量だけでは室温強磁性を説明できず、格子膨張など別の変数が効いていると考えられる。

どの変数が支配的か(格子膨張・Co–Co 距離・酸素空孔の生成と分布・キャリア補償)。そして、それらのどれが強磁性の担い手を直接壊しているか。