4 Co の三つの顔 ― 席・価数・スピン状態
何を測れば、席・価数・スピン状態を見分けられるのか。
どの測定も、単独ではこの三つを決められない。だから三つを組み合わせる。
1 一つの言葉に三つの変数
「In₂O₃ に Co を 5 % 入れた」。この一文は、実験の記述としては不完全である。結晶のなかで Co がどうなっているかを言うには、少なくとも三つを指定しなければならない。
- 席 ― 24d に座っているのか、8b に座っているのか。
- 価数 ― Co²⁺ なのか、Co³⁺ なのか。
- スピン状態 ― d 電子がどう詰まっているのか。
前章で一つ目を用意した。本章では二つ目と三つ目を用意し、あわせて「どの測定がどれを見ているか」を整理する。
2 結晶場と Hund 結合の綱引き
Co は 3d 遷移金属である。孤立した原子では 5 本の d 軌道が同じエネルギーをもつが、酸素に囲まれるとそうはいかない。
酸素は負に帯電しているので、酸素のほうを向いた d 軌道にいる電子はエネルギーを損する。八面体に囲まれた場合、5 本の d 軌道は、酸素のあいだを向く 3 本(\(t_{2g}\))と、酸素のほうを向く 2 本(\(e_g\))に分かれる。両者のエネルギー差を結晶場分裂 \(\Delta_{\mathrm{cf}}\) という。
電子は下から詰めたい。しかしもう一つ、逆向きの要求がある。同じ軌道に電子を 2 個入れると互いに反発するし、Hund 結合の効果でスピンは同じ向きに揃えたほうが得をする。つまり、
- \(\Delta_{\mathrm{cf}}\) が大きければ、無理をしてでも \(t_{2g}\) に詰め込む(低スピン)
- \(\Delta_{\mathrm{cf}}\) が小さければ、\(e_g\) に上げてでもスピンを揃える(高スピン)
という綱引きになる。中間的な詰め方(中間スピン)もありうる。
図 1 に、Co²⁺(d 電子 7 個)と Co³⁺(d 電子 6 個)で実際にとりうる配置を示す。
Co²⁺ は d 電子が 7 個ある。酸化物中では、ふつう \(t_{2g}^5 e_g^2\) の高スピン状態をとる。上向きが 5 個、下向きが 2 個なので、スピン量子数は \(S = (5-2)/2 = 3/2\) である。
Co³⁺ は d 電子が 6 個で、事情が複雑になる。
- 低スピン (LS):\(t_{2g}^6 e_g^0\)、\(S = 0\)。上向き 3 個・下向き 3 個で打ち消し合い、磁気モーメントをもたない。
- 中間スピン (IS):\(t_{2g}^5 e_g^1\)、\(S = 1\)。
- 高スピン (HS):\(t_{2g}^4 e_g^2\)、\(S = 2\)。
Co³⁺ は、同じ「3 価のコバルト」でありながら、磁気モーメントがゼロにも大きくもなりうる。価数を言っただけでは磁性は決まらない。
3 有効ボーア磁子数という物差し
スピン状態を実験から決めるには、磁化率を測る。常磁性体の磁化率は高温で Curie–Weiss 則
\[ \chi = \chi_0 + \frac{C}{T - \theta_p} \tag{1}\]
に従う。\(\chi_0\) は温度によらない寄与、\(C\) は Curie 定数、\(\theta_p\) は Weiss 温度である。測定した \(1/\chi\) を温度に対してプロットし、直線部分の傾きから \(C\) が求まる。
Curie 定数は、磁気モーメントをもつイオンの数 \(N\) と、1 個あたりのモーメントの大きさで決まる。
\[ C = \frac{N \mu_{\mathrm B}^2}{3 k_{\mathrm B}} p_{\mathrm{eff}}^2 \tag{2}\]
ここで定義される \(p_{\mathrm{eff}}\) が有効ボーア磁子数である。スピンだけが磁性を担う場合(軌道の寄与が消えている場合)、これは
\[ p_{\mathrm{eff}} = g\sqrt{S(S+1)}, \qquad g \approx 2 \tag{3}\]
で計算できる。この式に \(S\) を入れれば、各スピン状態が予言する \(p_{\mathrm{eff}}\) が出る。
| イオン | 状態 | \(S\) | \(p_{\mathrm{eff}}\)(spin-only) |
|---|---|---|---|
| Co²⁺ (d⁷) | HS | 3/2 | 3.87 |
| Co³⁺ (d⁶) | LS | 0 | 0 |
| Co³⁺ (d⁶) | IS | 1 | 2.83 |
| Co³⁺ (d⁶) | HS | 2 | 4.90 |
これで、測った \(p_{\mathrm{eff}}\) と表の値を比べれば、スピン状態が絞れる――というのが基本の戦略である。
spin-only は近似である
式 3 は軌道角運動量の寄与が完全に消えている(軌道が凍結している)と仮定している。八面体結晶場ではこの近似がよく成り立つことが多いが、いつもではない。第7章では、測定された \(p_{\mathrm{eff}}\) が表の最大値 3.87 を上回るという事態に出会う。そのとき、この近似を疑うことになる。
4 三つの測定は、それぞれ何を見ているか
本書がこれから読む論文は、いつも同じ三つの測定を組み合わせている。それぞれが見ているものは違う。
| 測定 | 直接見ているもの | 見ていないもの |
|---|---|---|
| XRD(リートベルト解析) | 格子定数、各席の占有率 | 価数、スピン状態 |
| XPS | 内殻電子の束縛エネルギー = 価数 | 席、長距離の秩序 |
| 磁化・磁化率 | 磁気モーメントの大きさと揃い方 | 席、価数(単独では) |
X 線回折は、結晶に周期的に並んだ電子密度を見る。だから、どの席に何個の原子が入っているかは分かるが、その原子が何価かはほとんど分からない。Co²⁺ と Co³⁺ は電子数が 1 個しか違わず、回折強度への効き方はごくわずかだからである。
XPS は、X 線で叩き出した内殻電子の運動エネルギーを測る。Co の 2p 内殻の束縛エネルギーは価数によってずれ、さらに Co²⁺ では特徴的なサテライト構造が現れる。だから価数は分かる。しかし、その Co がどの席にいるかは分からない。
磁化測定は、揃ったスピンの総量を見る。\(p_{\mathrm{eff}}\) からスピン状態を推定できるが、それは価数の内訳が別途分かっている場合に限られる。試料に Co²⁺ と Co³⁺ が混ざっていれば、測れるのは両者の混合平均だけである。
どの測定も、単独では三つの変数を決められない。XRD で席を、XPS で価数を決め、その二つを前提として磁化からスピン状態を絞る。この順序が、以後すべての章の骨組みである。
5 混ぜたものをどう分けるか
実際の試料には Co²⁺ と Co³⁺ が混ざっている。このとき \(p_{\mathrm{eff}}\) はどうなるか。
Kumagai らは、XPS から求めた存在比を使って次のように書いた。Co³⁺ の割合を \(f\) とすると、
\[ p_{\mathrm{eff}} = (1-f)\, p_{\mathrm{eff}}(\mathrm{Co}^{2+}) + f\, p_{\mathrm{eff}}(\mathrm{Co}^{3+}, S) \tag{4}\]
である。右辺の \(S\) に 0、1、2 を入れれば、Co³⁺ が LS・IS・HS のそれぞれだった場合の予言が得られる。あとは測定値と比べればよい。
この式が本書の主力になる。第5章で Co 濃度を変えたときに、第7章で Al を入れたときに、同じ式が使われる。
足しているのは何か
式 4 は \(p_{\mathrm{eff}}\) そのものを混合比で足している。厳密には、独立なイオンの Curie 定数は \(p_{\mathrm{eff}}^2\) に比例するので、足すべきは二乗のほうだという議論もありうる。ここでは論文が採用した形をそのまま使う。どちらで計算しても、LS・IS・HS の三つを見分けるという目的には十分な差が出る。
6 小課題
小課題 4-1:spin-only の値を自分で出す
\(p_{\mathrm{eff}} = g\sqrt{S(S+1)}\)、\(g = 2\) として、次を計算せよ。
- Co²⁺ 高スピン(\(S = 3/2\))
- Co³⁺ 低スピン(\(S = 0\))、中間スピン(\(S = 1\))、高スピン(\(S = 2\))
- Co³⁺ が高スピンだったとき、Co²⁺ より \(p_{\mathrm{eff}}\) は大きいか小さいか。
解答例を見る
(i) \(2\sqrt{(3/2)(5/2)} = 2\sqrt{15}/2 = \sqrt{15} = 3.87\)
(ii) \(S=0\):\(0\)。\(S=1\):\(2\sqrt{2} = 2.83\)。\(S=2\):\(2\sqrt{6} = 4.90\)
(iii) \(4.90 > 3.87\) なので大きい。ここが重要である。Co²⁺ の一部が Co³⁺ に変わったとき、\(p_{\mathrm{eff}}\) は Co³⁺ が LS や IS なら下がるが、HS なら上がる。つまり \(p_{\mathrm{eff}}\) の変化の向きだけで、HS かそうでないかを判別できる。この判別を第5章で実行する。
小課題 4-2:測定の役割分担
ある試料について、次のことを知りたい。それぞれ、本章の三つの測定のどれを使うか。二つ以上必要なものはそう書け。
- Co を入れたことで格子が縮んだか
- Co²⁺ と Co³⁺ の比
- Co³⁺ が低スピンか中間スピンか
- Co が 24d と 8b のどちらに多く入ったか
解答例を見る
(i) XRD。格子定数は回折ピークの位置から直接求まる。
(ii) XPS。内殻準位のずれとサテライト構造から価数の比が出る。
(iii) 磁化測定と XPS の両方。磁化から \(p_{\mathrm{eff}}\) を出しても、Co²⁺ と Co³⁺ の比が分からなければ 式 4 が使えない。比を XPS で決めて初めて、Co³⁺ のスピン状態を絞れる。
(iv) XRD のリートベルト解析。各席の占有率を精密化する。ただし Co と In は電子数が近いので、この判定は感度が高くない。だから第5章では、格子定数の変化という別の証拠と合わせて読むことになる。
7 この章の位置づけ
ここまでが準備である。席(第3章)、価数とスピン状態(本章)、そして三つの測定の役割分担。この道具立てをもって、次章から実際のデータに向かう。
最初の問いはごく素朴なものである。Co を増やせば、磁性は強くなるのだろうか。
第4章で言えること
八面体結晶場では d 軌道が \(t_{2g}\) と \(e_g\) に分裂する。Co²⁺ (d⁷) は高スピン \(S=3/2\) をとり spin-only の \(p_{\mathrm{eff}}\) は 3.87、Co³⁺ (d⁶) は LS (\(S=0\), 0)、IS (\(S=1\), 2.83)、HS (\(S=2\), 4.90) の三通りをとりうる。
スピン状態は結晶場分裂と Hund 結合の綱引きで決まる。混合試料の \(p_{\mathrm{eff}}\) は Co³⁺ の割合の一次式で書け、その変化の向きから Co³⁺ のスピン状態を絞れる。
spin-only 近似(軌道の寄与がゼロ)が成り立つこと。混合の式で \(p_{\mathrm{eff}}\) を直接足してよいこと。