序章 透明な酸化物は磁石になれるのか

光を通す物質と、磁石になる物質は、両立できるのか。
この問いに「できるらしい」という答えが出た日から、本書の物語は始まる。

二つの性質は、なぜ同居しにくいと思われていたのか

窓ガラスは光を通す。磁石は光を通さない。日常の経験では、この二つは別の世界の話に見える。実際、物理の言葉に直しても、両者は簡単には結びつかない。

物質が透明であるためには、可視光の光子(エネルギーにしておよそ 1.6〜3.1 eV)を電子が吸収しなければよい。そのためには、電子が詰まった状態と空いた状態の間のエネルギー差、すなわちバンドギャップが可視光より大きければよい。ガラスや酸化インジウムのような広いギャップをもつ酸化物は、この条件を満たす。

物質が磁石であるためには、原子のもつ磁気モーメントが同じ向きに揃い、その揃った状態が室温の熱ゆらぎに耐えなければならない。モーメントを担うのはふつう遷移金属の d 電子であり、それを揃えるには、モーメントどうしを結びつける仕組み――交換相互作用――が必要になる。

問題は、この二つの要求が互いに邪魔をすることである。d 電子はエネルギーの中途半端な位置に準位をつくるので、可視光を吸収しやすい。逆に、可視光を吸収しないほど電子をきちんと詰めてしまうと、磁気モーメントを担う電子が残らない。だから、透明で、かつ室温で磁石になる物質は、長いあいだ見つからなかった。

半導体に磁性を持たせる研究自体は以前から進んでいた。Mn を加えた GaAs は代表例だが、磁石でいられる上限の温度(Curie 温度 \(T_{\mathrm C}\))が 100 K 程度にとどまり、室温には遠い。しかも不透明である。

透明であることと磁石であることは、原理として排他ではない。しかし両立させるのは難しく、2000 年ごろまで実例はほとんどなかった。

2001 年の報告

その状況を変えたのが、2001 年の一本の論文である。

この節で読む論文

Y. Matsumoto, M. Murakami, T. Shono, T. Hasegawa, T. Fukumura, M. Kawasaki, P. Ahmet, T. Chikyow, S. Koshihara, H. Koinuma,
“Room-Temperature Ferromagnetism in Transparent Transition Metal-Doped Titanium Dioxide”,
Science 291, 854–856 (2001).

彼らは、酸化チタン TiO₂ のアナターゼ型薄膜に Co を 0 から 8 % まで加え、その磁性を調べた。結果は次のとおりである。

  • 薄膜は透明なままである。
  • 磁区構造が磁気顕微鏡で見え、長距離の強磁性秩序があることを示している。
  • 室温を超えても強磁性が残る。\(T_{\mathrm C}\) は 400 K より高いと見積もられた。
  • Co 1 個あたりの自発磁気モーメントは 0.32 \(\mu_{\mathrm B}\) である。

透明であり、しかも室温で磁石である。これは、それまで両立しないと思われていた二つが同時に成り立った、という報告だった。

ここで最後の数値に注目しておきたい。0.32 \(\mu_{\mathrm B}\)/Co という値は、決して大きくない。Co²⁺ がもつ磁気モーメントは、すべてが同じ向きに揃えば Co 1 個あたり 3 \(\mu_{\mathrm B}\) ほどになる(この見積もりは第4章で組み立てる)。つまり、観測されたのはその 1 割程度でしかない。

最初から影がある

「室温で磁石になった」という報告の内側には、最初から「では、加えた Co のうち実際に働いているのはどれだけか」という問いが埋まっている。この影は本書の最後までついて回る。第1章で In₂O₃ の報告を見るとき、第2章で疑いを検討するとき、そして第8章で予測が外れるとき、いつも同じ影が顔を出す。

探索が広がる

Matsumoto らの報告のあと、同じことが他の透明酸化物でも起きないかという探索が一気に広がった。ZnO、SnO₂、Cu₂O、そして本書の主役である In₂O₃ に、Fe・Mn・Co などの遷移金属を少量加える研究が各国で始まった(図 1)。こうした材料は希薄磁性半導体(DMS)と呼ばれる。「希薄」とは、磁性元素が数%しか入っていないという意味である。

flowchart LR
  A["Mn ドープ GaAs など<br>T_C ≈ 100 K<br>不透明"]:::old
  M["2001 TiO₂:Co<br>0.32 μB/Co<br>T_C > 400 K・透明"]:::turn
  B["透明な酸化物で<br>室温強磁性を探す"]:::turn
  Z["ZnO:Co, ZnO:Fe"]:::new
  S["SnO₂:Co"]:::new
  I["In₂O₃:Co<br>← 本書"]:::focus
  A --> M
  M --> B
  B --> Z
  B --> S
  B --> I
  classDef old fill:#f8d7da,stroke:#dc3545
  classDef turn fill:#fff3cd,stroke:#ffc107
  classDef new fill:#d1ecf1,stroke:#17a2b8
  classDef focus fill:#d4edda,stroke:#28a745,stroke-width:3px
図 1: 室温強磁性の探索が透明酸化物へ広がった経緯。左は 2001 年以前の状況、中央が転機、右が広がった先。本書は右端の In₂O₃:Co だけを追う。図:著者作成。

数ある候補のなかで In₂O₃ が特に注目されたのには理由がある。In₂O₃ にスズを加えた ITO(インジウムスズ酸化物)は、液晶画面やタッチパネルの透明電極として広く使われている材料であり、透明でありながら電気をよく通すという、扱いやすい性質をもつ。もしこれが磁石にもなれば、光・電気・磁気の三つを一つの材料で扱えることになる。

この本の進み方

以後、本書は In₂O₃ に Co を加えた系だけを追いかける。第1章でその最初の報告を読み、第2章で「本当か」という疑いを検討する。第3章から第5章で、Co が結晶のどこに座り、何価で、どのスピン状態にあるかを見分ける道具を用意する。第6章で磁性の主役が誰なのかを問い、第7章で著者らの研究室が Co の価数を外から動かせるようになる。

そして第8章で、この物語は曲がる。

第7章の終わりに、著者らは一つの予測を立てる。第8章で、その予測は前半だけ当たり、後半は外れる。外れたことが、この物語をいちばん前へ進める。

予測が外れることは失敗ではない。外れ方をきちんと見れば、それまで見えていなかった変数が姿を現す。研究とはそういう作業の繰り返しであり、本書はその一部始終を、一つの物質を通して見せるために書かれている。

それでは、In₂O₃ に Co を加えた最初の報告から始めよう。