flowchart LR
A1["startmag = 0.1<br>(16 反復)"] --> M["谷の底<br>M ≈ 1.655 μ_B/atom"]
A2["startmag = 0.3<br>(20 反復)"] --> M
A3["startmag = 0.7<br>(24 反復)"] --> M
A4["startmag = 1.0<br>(27 反復)"] --> M
9 初期磁化は答えではない
出発点をどこに置いても同じ終点へたどり着くなら、その終点は出発点に依らない。
starting_magnetization に入れた数は答えなのか、それとも歩き始めの一歩にすぎないのか。
この章のゴール:starting_magnetization は SCF の初期条件であって収束後の物理量ではないことを、四つの異なる初期値が同じ終状態 \(M\approx1.655\ \mu_\text{B}/\text{atom}\) へ収束する事実から理解する。出力の \(M\) は答えとして読み、入力の starting_magnetization は出発点としてだけ読む――この線引きを自分の手で引けるようになる。
第7章で degauss という近似のつまみを見たあと、ここでもうひとつ、名前にだまされやすい入力を取り上げる。starting_magnetization である。「magnetization(磁化)」という語が入っているせいで、ここに入れた数がそのまま答えの磁気モーメントになりそうに見える。本章はその見かけに決着をつける。先に結論の形を言っておく。starting_magnetization は SCF が歩き始める一歩目を決めるだけで、たどり着く終点を動かさない。鍵になるのは、同じ計算を四つの異なる初期値から走らせ、終状態をそろえて比べる beginner 束 Phase1 のデータである。出発点を変えても終点が動かないという一つの事実から、変分原理の言葉で「なぜ動かないか」を説明できるところまで進む。
1 starting_magnetization は何を決めるか
nspin=2 でスピン分極を許したとき、計算機は最初に「各原子のスピンがどれくらい偏っているか」の初期の見積もりを必要とする。SCF(自己無撞着場)は、電子の分布を仮に置く→その分布が作る場を計算する→その場のもとで電子を詰め直す、という往復を、入口と出口が食い違わなくなるまで繰り返す手続きである。この往復には、最初に置く「仮の分布」がどうしても要る。starting_magnetization は、そのうちスピンの偏りについての初期の見積もりを与えるつまみである。
つまり starting_magnetization が決めるのは、つじつま合わせが回り始めるための一歩目であって、つじつまが合ったあとの落ち着き先ではない。一歩目を大きく踏むか小さく踏むかは、最終的にどこへ落ち着くかとは別の話になりうる。「ありうる」で止めずに、本当に終点が動かないのかを、次節でデータに語らせる。
2 Phase1 の事実 ― 四つの出発点、ひとつの終点
beginner 束 Phase1 では、ほかの条件(ecutwfc=80 Ry、k 点 \(8\times8\times6\)、degauss など)をすべて固定し、starting_magnetization だけを 0.1, 0.3, 0.7, 1.0 と四通りに変えて SCF を走らせた。結果を表にする。
starting_magnetization |
収束後の \(M\)(\(\mu_\text{B}/\text{atom}\)) | SCF 反復数 |
|---|---|---|
| 0.1 | 1.655 | 16 |
| 0.3 | 1.655 | 20 |
| 0.7 | 1.655 | 24 |
| 1.0 | 1.655 | 27 |
読みどころは二つある。第一に、収束後の磁気モーメントは四通りとも \(M\approx1.655\ \mu_\text{B}/\text{atom}\) という同一の終状態に落ち着く。入口で 0.1 と入れようと 1.0 と入れようと、出口の \(M\) は小数第三位までそろう。第二に、要した SCF 反復は 16, 20, 24, 27 回と、出発点が大きいほど――終点 0.1655 から遠いほど――増えている。出発点の違いは終点ではなく、終点までの道のりの長さに現れている。
この表を図にすると、四本の道がひとつの谷へ集まる像が見える。
starting_magnetization(0.1, 0.3, 0.7, 1.0)から出発した SCF の収束後 \(M\) と反復数。左:収束後 \(M\) は出発点に依らず水平(すべて 1.655)。右:反復数は出発点が遠いほど右肩上がり(16→27)。出発点の違いは終点ではなく道のりに現れる。
図 1 の左パネルは、横軸に starting_magnetization、縦軸に収束後の \(M\) をとったもので、四点が一本の水平線にのる。縦軸の幅をあえて 1.5〜1.8 に広くとってあるのは、「動かない」ことを目で確かめるためである。右パネルは同じ横軸に対して SCF 反復数をとり、こちらは右肩上がりになる。一枚で「終点は動かず、道のりだけが伸びる」という Phase1 の事実が読み取れる。
なぜ終点へ集まるのか。出発点の違いがエネルギーの斜面のどこにボールを置くかの違いだとすれば、四つのボールはいずれ同じ谷の底へ転がり落ちる。その像を次の図に置く。
3 変分原理との結びつき
四つの出発点がひとつの終点へ集まる理由は、SCF が何を探しているかにある。SCF が探しているのは、与えた条件のもとで全エネルギーを最も低くする電子状態である。この「エネルギー最小を探す」という原理を変分原理と呼ぶ。解はエネルギー最小という条件で決まるのであって、どこから探し始めたかでは決まらない。
図 2 の谷の像がそのまま効く。エネルギーの谷の底はひとつで、斜面のどこにボールを置いても同じ底に転がり落ちる。starting_magnetization は転がし始める位置を選ぶだけで、底の深さも位置も動かさない。位置によって変わるのは、底に届くまでに何度坂を下るか――SCF 反復が 16 回で済むか 27 回かかるか――だけである。Phase1 の表が示した「終点は同じ・反復数は違う」は、この谷の像のとおりの姿になっている。
ここから、入力と出力の読み分けが導かれる。出力の \(M\approx1.655\) は、計算機がエネルギー最小の条件のもとで返した答えであり、物理量として読んでよい。一方、入力の starting_magnetization は谷へ向かう一歩目を指定しただけで、答えとして読んではならない。両者は同じ「磁化」という顔をしているが、役割はまるで違う。
コラム:擬ポテンシャルを替えても傾向は残る
Phase8 では、同じ hcp Co を二つの擬ポテンシャルで解いた。主に使う PAW(Co.pbe-spn-kjpaw_psl.0.3.1.UPF)と、比較用の USPP(Co_pbe_v1.2.uspp.F.UPF)である。磁気モーメントは PAW で \(M=1.655\)、USPP で \(M=1.645\) とほぼそろう。道具を替えても磁石らしさの大きさは似た値で返ってくる。
ところが全エネルギーの絶対値は、PAW で \(E=-753.449\) Ry、USPP で \(E=-596.983\) Ry と大きく食い違う。\(150\) Ry 以上も違うのは、二つの擬ポテンシャルがエネルギーの原点(どの電子を芯に押し込めて数えないか)を別々に取っているからで、片方が正しく他方が間違っているわけではない。異なる擬ポテンシャル間で全エネルギーの絶対値を引き算してはならない。これは第3章で触れた「全エネルギーの絶対値は単独では意味をもたない」の親戚で、第9章で同じ擬ポテンシャル内の差を扱うときに正面から効いてくる。差や傾向(\(M\) の値)は道具を替えても残りやすく、絶対値の突き合わせは禁物――この線引きを覚えておきたい。
小課題 8.1
Phase1 では starting_magnetization を 0.1, 0.3, 0.7, 1.0 と変えたが、収束後の磁気モーメントはいずれも \(M\approx1.655\ \mu_\text{B}/\text{atom}\) でそろい、SCF 反復は 16, 20, 24, 27 回だった。
この「初期値を変えても終状態が同じ」という事実は、解が何によって決まっていることを意味するか。変分原理の言葉で一文にまとめよ。
反復数が 16 から 27 へと、出発点が大きいほど増えているのはなぜか。図 2 の谷の像を使って説明せよ。
解答例
解は、与えた条件のもとで全エネルギーを最小にするという条件だけで決まっている。四つの出発点はいずれもこのエネルギー最小の状態へ落ち着くため、終状態の \(M\approx1.655\) は出発点に依らない。
starting_magnetizationは探索の初期位置を選ぶだけで、エネルギーの谷の底そのものは動かさない。谷の底(収束後の偏りに対応する目安は 0.1655)から見て、出発点 0.1 はすでに底の近くにあり、少ない往復で食い違いが消える。出発点 1.0 は底から最も遠く、坂を下りきるまでに多くの往復を要する。だから反復数は出発点が遠いほど増える。増えるのは道のりの長さであって、たどり着く先の差ではない。
よくある誤解
「starting_magnetization=0.7 と入れたから、磁気モーメントが 0.7 付近に出た」と読みたくなる。だが Phase1 が示すとおり、0.1 から 1.0 までどの値を入れても終状態は \(M\approx1.655\) でそろう。仮にこの読みが正しければ、入力 0.1 では \(M\approx0.1\)、入力 1.0 では \(M\approx1.0\) と、出力が入力につれて動くはずである。実際には動かない。出力の \(M\) は計算がエネルギー最小の条件で返した答えであり、入力の starting_magnetization は答えへ向かう一歩目にすぎない。両者は同じ「磁化」という顔をしているが、役割が違う。
4 この章のまとめ
starting_magnetizationは SCF の初期条件(出発点)を決めるつまみであって、収束後の磁気モーメントそのものではない。決めるのは一歩目であり、落ち着き先ではない。- Phase1 では 0.1, 0.3, 0.7, 1.0 のいずれから出発しても \(M\approx1.655\ \mu_\text{B}/\text{atom}\) という同一の終状態へ収束し、違いは SCF 反復数(16, 20, 24, 27 回)にだけ現れた。
- 終点が出発点に依らないのは、解がエネルギー最小という条件で決まるためである(変分原理)。谷の底はひとつで、斜面のどこにボールを置いても同じ底へ転がり落ちる。
- 出力の \(M\) は答えとして読めるが、入力の
starting_magnetizationは答えとして読んではならない。擬ポテンシャルを替えても \(M\) の傾向は残るが、全エネルギーの絶対値は道具ごとに原点が違うので比べられない(コラム)。 - 次章では、この \(M\) を伴った強磁性状態と、磁気モーメントをもたない非磁性状態を、同じ土俵にそろえて引き算する。比べてよいのは絶対値ではなく差だけである、という一手へ進む。