flowchart TB
A["計算が返した数字"] --> B{"SCF を一度回せば<br>そのまま出るか"}
B -- "はい" --> C["直接の出力<br>(M, E_F, 各 E_tot)"]
B -- "差や単位換算を挟む" --> D["一手の翻訳が要る<br>(ΔE_FM-NM, DOS)"]
B -- "何点も並べて読む" --> E["解釈が要る<br>(a, c/a の谷)"]
C --> F["本物と突き合わせる"]
D --> F
E --> F
2 コバルトは磁石らしいか
磁石としてのコバルトについて、計算機は何を答え、何を答えないのか。
返ってきた数字のどれが「磁石らしさ」そのもので、どれが翻訳を待つ目安なのか。
この章のゴール:計算機がコバルトについて返す数字――FM/NM の全エネルギー差、スピン磁気モーメント \(M\)、状態密度、格子 \(a\) と \(c/a\)――を「主張の候補」として並べ、どれが計算の直接の出力で、どれが解釈や単位の翻訳を足してはじめて本物と比べられるかを、自分で仕分けられるようになる。本書全体の地図を手に入れる章である。
「はじめに」で、計算機の中のコバルトが磁石になりたがることを、ひとまず眺めた。この章では本格的に計算機を開く前に、まず問いの側を整える。コバルトについて私たちは何を知りたいのか、それを計算機はどんな数字で返してくるのか、そしてその数字をどう受け取ればよいのか。先に結論の形だけ言っておく。計算機が返す数字には、そのまま本物と比べてよいものと、一手の翻訳を挟んではじめて比べられるものの二種類がある。この仕分けの地図を持って読み進むと、後の章がどこへ向かうのかが見えてくる。
1 コバルトの何を知りたいのか
第一原理計算とは、原子の配置を入れると、その配置での力と全エネルギー、電子の状態、そしてスピンの偏りを返す変換器である。人間が与えるのは「どの種類の原子が、どこにあるか」だけで、計算機はその一点から、各原子にはたらく力と系全体のエネルギーを返す。コバルトのように磁性をもつ金属では、ここに「電子のスピンがどちらをどれだけ向いているか」――スピン磁気モーメント――が加わる。
この変換器に、コバルトについて知りたいことを四つ預ける。
- どんな形に並ぶのか。コバルトは室温で hcp(六方最密充填)という構造をとる。その形を一つの長さと一つの比で代表させたのが、格子定数 \(a\) と軸比 \(c/a\) である(第2章)。
- 本当に磁石になりたがるのか。電子のスピンがそろった強磁性(FM)の状態と、スピンの偏りを許さない非磁性(NM)の状態を、同じ条件で計算してエネルギーを比べる。どちらが低いかが、磁石になりたがるかどうかの目安になる(第3章・第9章)。
- 磁石らしさはどれくらいか。なるとして、その大きさはどれほどか。原子あたりのスピン磁気モーメント \(M\) がその目安である(第3章)。
- 金属か。コバルトは金属である。電子がフェルミ準位(占有された電子のいちばん上のエネルギー)まで切れ目なく詰まっているか、すなわち状態密度(DOS)がフェルミ準位で有限の値をもつかで確かめる(第10章)。
この四つを、計算機に出させ、一つずつ本物と突き合わせていく。突き合わせるためには、まず本物の側でおおよその見当をつけておきたい。そこで、磁石らしさの目安である \(M\) を、計算機を回す前に手で見積もってみる。
2 手で磁気モーメントを見積もる
コバルト原子を一個、真空中にぽつんと置いた状況を考える。電子配置は [Ar]3d⁷4s² である。磁気モーメントを生むのは満たされきっていない 3d 殻で、ここに 7 個の電子が入っている。
電子が縮退した軌道にどう収まるかには、簡単な目安がある。同じ向きのスピンをできるだけ多くそろえる、という規則である。d 軌道は 5 つあるから、まず 5 個の電子が一個ずつ、スピンを上にそろえて各軌道に入る。残る 2 個は、空いた軌道がもうないので、すでに入っている軌道へスピンを下にして相方として入る。結果として、上向き 5 個・下向き 2 個。差し引き、相方のいない電子――不対電子――が 3 個残る。
不対電子 1 個はおよそ 1 \(\mu_\text{B}\) の磁気モーメントを担う。だから孤立コバルト原子のスピン磁気モーメントは、ざっと
\[ M_\text{atom} \approx 3\ \mu_\text{B} \]
と見積もれる。これが「まず手で出した」値である。
ところが、金属のコバルトを計算機に入れて出てくる値は、\(M \approx 1.66\ \mu_\text{B}/\text{atom}\) にとどまる。実験で測られる値もおよそ \(1.7\ \mu_\text{B}/\text{atom}\) である。手の見積もり 3 に対して、計算も実験も、その半分ほどに落ち着く。三つの数字をひとまず並べておこう。
| 出どころ | \(M\)(\(\mu_\text{B}/\text{atom}\)) |
|---|---|
| 手の見積もり(孤立原子・フントの規則) | 約 3 |
| 計算(hcp 金属・本書の条件) | 1.66 |
| 実験(hcp 金属) | 約 1.7 |
見積もりが上振れしたのには理由がある。孤立原子では 3d 電子は一個の原子に閉じこめられ、スピンをそろえる規則がそのまま効く。ところが金属では、隣り合う原子の 3d 軌道どうしが重なり合い、電子は結晶全体に広がって動き回る。広がった電子は、上向きと下向きのスピンの差を孤立原子ほど大きく保てない。スピンの偏りは、いわば薄まる。だから金属の \(M\) は、孤立原子の見積もりより小さくなる。「見積もりは上振れする、その理由は電子が遍歴するからだ」――いまはこの一言を握っておけばよい。手の見積もり・計算値・実験値を正面から突き合わせる検算は、第9章と第12章で完成させる。
ここで大事なのは、見積もりが外れたことそのものではない。桁が合っていることである。手で出した 3 \(\mu_\text{B}\) も、計算の 1.66 も、実験の 1.7 も、すべて 1〜3 \(\mu_\text{B}\) という同じ土俵にある。鉛筆だけで、計算機が返す値のオーダーを先に押さえられた。この「まず見積もり、後で計算機と突き合わせる」順番が、本書を通しての基本姿勢である。
3 計算が返す数字を、主張の候補として並べる
見当がついたところで、本書で実際に走らせた計算が返す主な数字を、一覧にして並べてみる。表の上の 5 行――全エネルギーと \(\Delta E_{\text{FM-NM}}\)、\(M\)、\(E_\text{F}\)――は、強磁性(FM)と非磁性(NM)を同じ条件でそろえて計算した一束(本書では smoke 束と呼ぶ。Quantum ESPRESSO による hcp Co の 2 原子セル、ecutwfc=80 Ry、k 点 \(12\times12\times8\)、degauss=0.02 Ry の SCF)から引いた確定値である。下の 3 行――状態密度と \(a\)・\(c/a\)――は、別に走らせた計算(それぞれ第10章・第11章で扱う)から引いた値である。いずれも実データに照合した確定値である。
| 量 | 値 | 直接の出力か |
|---|---|---|
| 全エネルギー(FM) | \(-753.447\) Ry/cell | 直接 |
| 全エネルギー(NM) | \(-753.412\) Ry/cell | 直接 |
| 全エネルギー差 \(\Delta E_{\text{FM-NM}}\) | \(\approx -0.24\) eV/atom | 直接(差をとり単位を Ry→eV へ換算) |
| スピン磁気モーメント \(M\) | \(1.66\ \mu_\text{B}/\text{atom}\) | 直接 |
| フェルミエネルギー \(E_\text{F}\) | \(18.21\) eV | 直接 |
| フェルミ準位の状態密度 | \(\approx 1.8\) states/eV | ほぼ直接(NSCF と後処理が要る) |
| 格子定数 \(a\) | \(\approx 2.49\) Å | 解釈が要る(粗いスキャンの谷) |
| 軸比 \(c/a\) | \(\approx 1.60\) | 解釈が要る(粗いスキャンの谷) |
各行が本書のどこで主役になるかも添えておく。\(\Delta E_{\text{FM-NM}}\) と \(M\) は第3章で導入し第9章で検算する。\(E_\text{F}\) と状態密度は第10章で金属性の証拠として読む。\(a\) と \(c/a\) は第11章で構造を粗く動かして谷を探る。そして表の右端に並ぶ「直接か/解釈が要るか」という分類こそ、この章で手に入れたい地図である。
何が「直接」で何が「解釈が要る」のか。線の引き方はこうだ。SCF を一度回せば計算機がそのまま画面に出す数字――全エネルギー、\(M\)、\(E_\text{F}\)――は、直接の出力である。これらは計算の言葉のまま読める。一方、\(\Delta E_{\text{FM-NM}}\) は二つの計算の差をとり、さらに Ry を eV に直す一手を挟んでいる。状態密度は SCF のあとにもう一段の計算(NSCF と後処理)を必要とする。\(a\) と \(c/a\) にいたっては、何点ものエネルギーを並べて谷の位置を読み取る作業の産物で、しかもその谷は粗いスキャンの谷であって、確定した格子定数ではない(第11章で正面から扱う)。同じ「計算が返した数字」でも、本物と比べるまでの距離はまるで違う。この距離の違いを意識して読むと、後の章の手続きがなぜ要るのかが腑に落ちる。
4 山場を、先に予告しておく
表の中で、ひときわ目を引く数字がある。\(M = 1.66\ \mu_\text{B}/\text{atom}\) である。手の見積もりとも実験値ともオーダーで合い、しかも FM は NM より原子あたり約 0.24 eV も低い。コバルトは計算機の中でもちゃんと磁石になりたがり、その磁石らしさの大きさまで、それらしい値で返ってきた。
ここで、こう言いたくなる。「\(1.66\ \mu_\text{B}/\text{atom}\) が出た。だからコバルトの磁石としての性質は、計算で再現できた」と。
この一歩は、踏み出す前に立ち止まる値打ちがある。\(M\) は、本書の計算が返すかぎりでは、計算が置いた理想化の枠の中でのスピンの偏りである。私たちが日常で磁石の強さと呼ぶ飽和磁化、温度を上げると磁石でなくなるキュリー点 \(T_\text{c}\)、磁石に向きやすい方向がある異方性――これらは、同じ \(\mu_\text{B}\) という顔をしていても、\(M\) とは別の量であり、別の道具で測る。\(M\) を飽和磁化と突き合わせるには、質量密度やモル質量を通じた単位の翻訳が要る。\(T_\text{c}\) や異方性にいたっては、本書の計算は手をつけていない。本書はこの一点に向かって進み、第12章で正面から決着をつける。いまは「\(M\) は確かに本物の数字だが、それがそのまま磁石の強さを意味するわけではない」という札を、地図の上に立てておく。
小課題 1.1
孤立したコバルト原子(電子配置 [Ar]3d⁷4s²)のスピン磁気モーメントを、フントの規則で見積もりたい。
3d 殻の 7 個の電子を 5 つの d 軌道に、同じ向きのスピンをできるだけ多くそろえて入れたとき、相方のいない不対電子は何個か。
不対電子 1 個をおよそ 1 \(\mu_\text{B}\) として、孤立原子のスピン磁気モーメント \(M_\text{atom}\) を見積もれ。
- の見積もりを、計算値 \(1.66\ \mu_\text{B}/\text{atom}\)、実験値 約 \(1.7\ \mu_\text{B}/\text{atom}\) と比べよ。ずれは大きい側か小さい側か。その向きを生む物理的な理由を一言で述べよ。
解答例
d 軌道は 5 つある。まず 5 個の電子が一個ずつ、スピンを上にそろえて各軌道へ入る。残る 2 個は空き軌道がないので、すでに入った軌道へスピンを下にして入り、相方をつくる。よって不対電子は 3 個(上向き 5・下向き 2 の差し引き)。
不対電子 3 個だから \[ M_\text{atom} \approx 3 \times 1\ \mu_\text{B} = 3\ \mu_\text{B}. \]
見積もり 3 に対し、計算 1.66・実験 1.7 はおよそ半分。見積もりが大きい側にずれている。理由は、金属では 3d 電子が隣の原子へと広がって遍歴し、孤立原子ほどスピンの偏りを保てないからである。それでも三者はそろって 1〜3 \(\mu_\text{B}\) の同じオーダーに収まり、桁としては手の見積もりが計算値を正しく言い当てている。
よくある誤解
「\(\Delta E_{\text{FM-NM}}\) が負(FM のほうが約 0.24 eV/atom 低い)なのだから、コバルトは室温でも強磁性のはずだ」と読みたくなる。だが、この計算から言えるのは、絶対零度で強磁性の解が非磁性の解よりエネルギー的に好まれることまでである。室温で磁石であり続けるかどうか――温度を上げてもスピンのそろいが崩れないかどうか――は、キュリー点 \(T_\text{c}\) という別の量が決め、別の道具(有限温度での磁気励起の扱い)を要する。エネルギーの谷が深いことと、その谷が高い温度まで保たれることは、関係はあっても同じではない。コバルトの \(T_\text{c}\) は実際およそ 1388 K と高いが、その数字は本書の計算からは出てこない。「FM が低い」から「室温で磁石」へ飛ぶ一歩には、この計算には載っていない温度の物理がまるまる隠れている。
5 この章のまとめ
本書全体を歩くための地図が手に入った。
- 第一原理計算は、原子の配置を入れると力・全エネルギー・電子状態・スピンの偏りを返す変換器である。コバルトについて本書が問うのは、形(\(a\), \(c/a\))/磁石になりたがるか(FM vs NM)/磁石らしさ(\(M\))/金属か(DOS)の四つ。
- 孤立コバルト原子のスピン磁気モーメントは、フントの規則で約 3 \(\mu_\text{B}\) と手で見積もれる。金属の計算値 1.66・実験値 約 1.7 はその半分ほどだが、すべて 1〜3 \(\mu_\text{B}\) の同じオーダーにある。ずれの向き(見積もりが大きい)は、金属での 3d 電子の遍歴が生む。
- 計算が返す数字には、SCF が直接出す量(\(M\), \(E_\text{F}\), 各 \(E_\text{tot}\))、差や単位換算を挟む量(\(\Delta E_{\text{FM-NM}}\), DOS)、何点も並べて読み取る量(\(a\), \(c/a\) の谷)がある。本物と比べるまでの距離はそれぞれ違う。
- \(M = 1.66\ \mu_\text{B}/\text{atom}\) は本物の数字だが、計算が置いた枠の中でのスピンの偏りであって、飽和磁化・\(T_\text{c}\)・異方性そのものではない。その枠の中身を数え上げ、この区別に決着をつけるのが第12章の山場である。
地図の最初の目的地は、四つの問いの先頭――コバルトの「形」である。無限に続く hcp の結晶を、計算機は有限のデータでどう表すのか。次章で、コバルトの結晶を数件の数として「置く」方法を手に入れる。