flowchart TB
A3["A 層(三段目・最上段の真上に戻る)"]
B["B 層(A のくぼみに乗る)"]
A1["A 層(最下段)"]
A3 --> B --> A1
3 hcp 結晶をデータで表す
コバルトの結晶を、計算機にどう手渡すか。
原子の置き方を決めるのは、たった二つの数――辺の長さと、その縦横比である。
この章のゴール:hcp コバルトの結晶を、2 原子の単位胞・格子ベクトル・分率座標で表し、それを ibrav=4・celldm(1)(\(a\))・celldm(3)(\(c/a\))という入力に翻訳できるようになる。とりわけ \(a\) と \(c/a\) が独立な二つの構造変数であることを、目と手で納得する。
前章で、計算機の中に置くコバルトが「磁石らしいか」を問う構えを固めた。だが計算機は結晶を見たことがない。原子をどこに、どんな周期で置くのかを、こちらが数値で手渡さなければ計算は始まらない。さいわい、手渡すべき数はごく少ない。無限に続くコバルトの結晶は、原則として二つの数で言い尽くせる。この章では、その二つを取り出し、Quantum ESPRESSO の入力へ翻訳するところまでを通す。答えは一行に収まる――コバルトの形は「底面の一辺 \(a\)」と「縦横比 \(c/a\)」の二点で決まり、この二つは互いに独立に動く。
1 六方最密充填という積み方
コバルトの常温で安定な相は、六方最密充填(hcp, hexagonal close-packed)構造をとる。最密充填とは、同じ大きさの球を、隙間ができるだけ小さくなるように積む置き方のことである。
積み方を順に追う。まず机の上に、球を一段、互いに接するように敷き詰める。一個の球のまわりに六個がぴたりと囲む、蜂の巣のような層ができる。これを A 層と呼ぶ。次の段は、A 層の球と球がつくるくぼみに球を落として乗せる。この第二段を B 層と呼ぶ。
問題は三段目である。三段目を、最初の A 層の真上に戻すか、もう一種類のくぼみへずらすかで、積み方が二つに枝分かれする。A の真上に戻し、A・B・A・B… と二層周期で繰り返すのが hcp である(別の選択をすると面心立方になるが、本書では立ち入らない)。コバルトはこの ABAB 型を選ぶ。
この ABAB の繰り返しを、丸ごと記述する必要はない。周期的な結晶は、繰り返しの最小単位さえ与えれば、あとは平行移動でいくらでも複製できる。hcp の場合、その最小単位には原子が二個入る。一個を単位胞の角 \((0,0,0)\) に、もう一個を底面内のくぼみの上、高さ半分の位置 \((1/3,\,2/3,\,1/2)\) に置く。この二点の置き方が、ちょうど A 層と B 層の関係を一つの胞の中に畳み込んでいる。
コバルトの hcp 結晶は、2 原子の単位胞で言い尽くせる。原子位置は分率座標で \(\mathrm{Co}(0,0,0)\) と \(\mathrm{Co}(1/3,\,2/3,\,1/2)\) の二つ。これを周期的に並べれば、無限の結晶が再生される。
分率座標という言い方を一言で押さえておく。\((1/3,\,2/3,\,1/2)\) は「メートルでも Å でもなく、格子ベクトルを物差しにした位置」である。底面の二辺の方向と、高さ方向の三本の格子ベクトルを単位に取り、それぞれ何本ぶん進むかを並べた数が分率座標になる。だから格子の大きさ \(a\) や \(c\) を変えても、原子の分率座標 \((1/3,\,2/3,\,1/2)\) そのものは変わらない。形の大きさと、胞の中の原子の相対配置とを、別々に扱えるのがこの座標の利点である。
2 \(a\) と \(c/a\) は別物である
では、形の大きさを決める数はいくつ要るのか。hcp の単位胞は、底面が一辺 \(a\) の菱形(正六角形を支える \(120^\circ\) の菱形)、その上に高さ \(c\) の柱を立てた六角柱として描ける。底面の形は正六角形に固定されているので、自由に動かせるのは底面の一辺 \(a\) と柱の高さ \(c\) の二つ。本書では高さを \(c\) そのものではなく、辺長で割った縦横比 \(c/a\) で表す。\(a\) が結晶全体の大きさ、\(c/a\) が「縦に伸びているか潰れているか」という形を担う。
flowchart LR
A["hcp 結晶の形"] --> B["a:底面の辺長<br>結晶の大きさ<br>celldm(1)(bohr)"]
A --> C["c/a:縦横比<br>縦に伸びているか<br>celldm(3)(無次元)"]
B --> D["第11章で<br>別々に粗くスキャン"]
C --> D
この二つが独立だという点が、後の章まで効いてくる。\(a\) を大きくしても \(c/a\) は変わらないし、\(c/a\) を変えても \(a\) はそのまま、という意味である。球を理想的に最密充填したときの軸比は、幾何だけで決まり
\[ \left(\frac{c}{a}\right)_\text{ideal} = \sqrt{\frac{8}{3}} \approx 1.633 \]
となる。剛体の球を積んだだけなら、コバルトもこの値になるはずである。ところが実験で測られるコバルトの軸比は \(c/a = 1.6228\) で、理想値からわずかに小さい側へずれている。このずれは誤差ではない。金属コバルトの結合は剛体球の積み重ねではなく、電子が担う結合に方向のくせがあるため、理想最密からほんの少し外れる。\(a\) と \(c/a\) を独立な二変数として扱えるからこそ、この「理想からのずれ」を一つの量として取り出せる。
| 量 | 記号 | コバルトの値 | 比較対象 |
|---|---|---|---|
| 底面の辺長 | \(a\) | \(2.507\) Å | 結晶の大きさ |
| 軸比 | \(c/a\) | \(1.6228\) | 理想最密 \(1.633\) |
二つが独立であることの実務上の帰結も、ここで予告しておく。後の章では、\(a\) を少しずつ動かしてエネルギーの谷を探るスキャンと、\(c/a\) を動かして谷を探るスキャンを、別々に行う(第11章)。二つの変数を一度に動かすのではなく、片方を固定してもう片方だけを掃く。独立だからこそ、この一本ずつの掃き方に意味がある。ただしそこで得る谷は「粗く五点を置いて二次曲線を当てた最小」であって、本物の最適格子そのものではない。この区別は第11章で正面から扱う。
3 これを QE 入力にどう書くか
二つの構造変数を、Quantum ESPRESSO は ibrav と celldm という入力で受け取る。
まず ibrav は、格子の型を番号で指定するキーワードである。ibrav=4 が六方格子(hexagonal)を指す。この一語で、底面が \(120^\circ\) の菱形・c 軸が底面に垂直、という骨組みが決まる。残るは寸法で、それを celldm の配列に入れる。
celldm(1)が辺長 \(a\) を与える。ただし単位は Å ではなく bohr(原子単位の長さ)である。コバルトの実験値 \(a = 2.507\) Å は、\(1\ \mathrm{bohr} = 0.529\) Å の換算で \[ \frac{2.507}{0.529} \approx 4.738\ \mathrm{bohr} \] となり、入力にはcelldm(1)=4.738と書く。celldm(3)が比 \(c/a\) を与える。こちらは無次元なので、実験値をそのままcelldm(3)=1.6228と書けばよい。
入力の上でも、\(a\) と \(c/a\) が celldm(1) と celldm(3) という別々の数として現れる点に注目したい。前節で「独立な二つのつまみ」と呼んだものが、入力ファイルでもきれいに二つの枠に分かれている。第11章でこの二つを別々にスキャンするとき、いじるのはまさにこの二行である。
原子の置き場所は、寸法とは別の枠で渡す。ATOMIC_POSITIONS (crystal) というブロックに、分率座標で
ATOMIC_POSITIONS (crystal)
Co 0.000000 0.000000 0.000000
Co 0.333333 0.666667 0.500000
と二行書く。(crystal) は「以下の座標は分率座標(格子ベクトル単位)だ」という宣言である。原子数 nat=2 と合わせて、これで 2 原子の単位胞が確定する。寸法(celldm)と中身(ATOMIC_POSITIONS)が別の枠に分かれているので、\(a\) や \(c/a\) を変えても、この二行はそのまま据え置ける。
小課題 2.1
hcp 単位胞の体積は、底面(辺長 \(a\) の \(120^\circ\) 菱形)の面積 \(\frac{\sqrt{3}}{2}a^2\) に高さ \(c\) を掛けて、\(V = \frac{\sqrt{3}}{2}\,a^2 c\) で与えられる。コバルトの値 \(a = 2.507\) Å、\(c/a = 1.6228\) を使って、
高さ \(c\) を求めよ。
単位胞の体積 \(V\) を求めよ。
単位胞に原子が 2 個あることから、原子 1 個あたりの体積を見積もり、金属の原子サイズとしてオーダーが妥当かを述べよ。
解答例
\(c = (c/a)\times a = 1.6228 \times 2.507 \approx 4.07\) Å。
底面積は \(\frac{\sqrt{3}}{2}(2.507)^2 \approx 0.866 \times 6.29 \approx 5.44\ \mathrm{\AA^2}\)。これに高さ \(c\) を掛けて \[ V = 5.44 \times 4.07 \approx 22.2\ \mathrm{\AA^3}. \]
単位胞は 2 原子だから、原子 1 個あたり \(V/2 \approx 11.1\ \mathrm{\AA^3/atom}\)。金属原子の占める体積は数〜十数 ų のオーダーで、これに収まる。オーダーとして妥当である。なおこの体積は \(a\) と \(c/a\) から導いた量だから、後で格子を動かせば当然変わる。いま固定された値ではなく、実験値という一点での見積もりだと意識しておきたい。
よくある誤解
「コバルトの軸比が理想の \(1.633\) ぴったりでないのは、測定の誤差だろう」と片づけたくなる。だが \(1.6228\) と \(1.633\) の差は、桁で見ても約 \(0.6\%\) あり、現代の構造測定の精度から見れば誤差では説明できない。剛体球を積んだだけなら \(1.633\) になるはずのところを、実際のコバルトはわずかに潰れている。これは金属結合の方向性が剛体球モデルからのずれとして表れたもので、ずれそのものが物理を含む。\(a\) と \(c/a\) を独立に扱えるからこそ、この「理想からのずれ」を一つの観測量として取り出せる、と読むのが正しい。
図 3 に、ここまでの言葉を一枚にまとめた。六角柱の枠の中に原子が二つ。底面の辺 \(a\) と高さ \(c\) が寸法を、二つの原子の置き方が中身を担う。寸法(\(a\), \(c/a\))と中身(分率座標)が分かれている――この絵を頭に置いておくと、入力ファイルの celldm と ATOMIC_POSITIONS がなぜ別ブロックなのかが、そのまま腑に落ちる。
4 この章のまとめ
- コバルトの hcp 結晶は、2 原子の単位胞と分率座標 \(\mathrm{Co}(0,0,0)\)・\(\mathrm{Co}(1/3,2/3,1/2)\)、そして二つの寸法 \(a\)・\(c/a\) で完全に表せる。ABAB の積層も、この一つの胞に畳み込まれている。
- \(a\)(実験 \(2.507\) Å)と \(c/a\)(実験 \(1.6228\)、理想 \(1.633\))は独立で、別々に測り、別々に動かせる。理想からのずれは誤差ではなく、金属結合の方向性を映した観測量である。
- QE では
ibrav=4・celldm(1)(\(a\), bohr)・celldm(3)(\(c/a\), 無次元)として寸法を渡し、ATOMIC_POSITIONS (crystal)で中身を渡す。celldm(1)=4.738、celldm(3)=1.6228が実験値に対応する。 - この章の数値は実験値・初期条件であって、計算で最適化した格子定数ではない。\(a\) と \(c/a\) を粗く動かして「いまの条件での谷」を探るのは第11章で、そこでは粗いスキャンを構造最適化と取り違えないことが鍵になる。
- 次章では、この箱に置いたコバルトの電子に「スピン」という向きを与える。フラグ
nspinを 1 から 2 へ上げると、計算に何が増えるのかを見る。