flowchart TB
subgraph S1["nspin=1(NM)"]
D1["電子密度(一枚)<br>上下を区別しない"]
D1 --> M0["M = 0(偏れない)"]
end
subgraph S2["nspin=2(FM)"]
DU["上向き密度"]
DD["下向き密度"]
DU --> DIFF["差 = スピン磁気モーメント M"]
DD --> DIFF
end
4 nspin は何を増やすのか
同じ結晶、同じ原子配置。
ただ一つのフラグを 1 から 2 へ変えるだけで、計算機は「磁石になりうるか」を問いはじめる。
この章のゴール:非磁性計算(nspin=1)と強磁性計算(nspin=2)の違いを、入力で何が増え、出力で何が増えるかの両面で読めるようになる。スピン分極という自由度が計算に何を加え、その結果として磁気モーメント \(M\) という新しい数がどこから現れるのかを理解する。
前章で、コバルトの結晶を二つの数で計算機に手渡した。だがその箱の中の電子には、まだ「向き」がない。コバルトを磁石たらしめるのは、電子のスピンという自由度である。この章では、その自由度を計算に与えるフラグ nspin が、入力で何を要求し、出力で何を返すのかに決着をつける。結論から言う。nspin を 1 から 2 へ上げると、計算は上向きと下向きの電子を別々に扱えるようになり、その結果として磁気モーメント \(M\) という数が新しく出力に現れ、全エネルギーがわずかに下がる。この対応を読めるようにするのが本章である。
1 スピンという自由度
電子はスピンという内部の自由度をもち、おおまかに「上向き」と「下向き」の二状態をとる。磁性とは、煎じ詰めれば、この上向きと下向きの数の偏りである。上下が同数なら偏りはなく、磁石にはならない。上が下より多ければ、その差ぶんだけ結晶が磁気モーメントをもつ。
計算機がこの偏りを表せるかどうかは、電子密度をいくつ持つかで決まる。電子密度とは「どこにどれだけ電子がいるか」を表す地図のことで、nspin はその地図を何枚持つかを切り替える。
nspin=1(非磁性、NM)では、上下を区別せず、電子密度の地図を一枚だけ持つ。上向きも下向きも同じ地図を共有するので、偏りようがない。磁化は定義からして 0 になる。nspin=2(共線スピン分極、FM)では、上向き用と下向き用の地図を二枚別々に持つ。二枚が違う形に落ち着けば、その差がスピン磁気モーメントとして表に出る。
地図を二枚持てば、計算量はおよそ倍に近づく。それでも nspin=2 を選ぶのは、一枚では決して表せない「磁石になりうるか」という問いを、計算が答えられるようになるからである。コバルトのように磁性をもつ金属では、この一枚から二枚への切り替えが本質的に効く。
2 nspin と starting_magnetization(入力側)
二枚の地図を許すだけでは、計算は始まらない。最初にどちらへ、どれくらい傾けて探索を始めるかも、入力で指定してやる必要がある。完全に上下対称な状態から出発すると、計算は対称なまま動かず、偏りが芽生えないことがあるからである。わずかに上向きへ傾けた初期状態を与えて、そこから自己無撞着場(SCF)の反復に偏りを育てさせる。
入力で増える行は、二つに集約される。
nspin=2――上下別々の密度を許す宣言。starting_magnetization(1)=0.7――一番目の原子種に与える初期の傾き。smoke 束ではこの値を \(0.7\) にとっている。
ここで強く言っておきたいのは、starting_magnetization は探索の出発点であって、答えではないことである。\(0.7\) という数は「上向きへこれくらい傾けて探索を始めよ」という初期条件にすぎず、計算が最後に返す磁化とは別物である。出発点をどこに置いても、行き着く先がほぼ同じになる――この性質は第8章で正面から確かめる。いまは「初期値であって答えではない」とだけ札を立てておく。
一方、nspin=1(NM)の入力には starting_magnetization の行は要らない。地図が一枚で偏りようがない以上、傾ける先もないからである。だから NM と FM の入力の差は、この二行――nspin の値と、starting_magnetization の有無――にきれいに集約される。残りの結晶構造・カットオフ・k 点などは、すべて同じにそろえる。同じ土俵で引き算をするための約束である。
flowchart LR
IN2["入力(FM)<br>nspin=2<br>starting_magnetization(1)=0.7"] --> OUT2["出力<br>total magnetization = 3.32 μB/cell<br>→ M = 1.66 μB/atom"]
IN1["入力(NM)<br>nspin=1<br>(magnetization 行なし)"] --> OUT1["出力<br>magnetization の行なし<br>→ M = 0"]
3 total magnetization と全エネルギー(出力側)
入力を変えた効果は、出力の二か所に現れる。一つは新しく姿を見せる磁化、もう一つは全エネルギーの下がり方である。smoke 束(同条件でそろえた NM と FM の SCF 比較)の確定値を並べる。計算条件は hcp Co の 2 原子セル、ecutwfc=80 Ry、k 点 \(12\times12\times8\)、degauss=0.02 Ry である。
| 量 | nspin=1(NM) |
nspin=2(FM) |
|---|---|---|
| \(E_\text{tot}\) (Ry/cell) | \(-753.412\) | \(-753.447\) |
| \(M\) (\(\mu_\text{B}/\text{atom}\)) | (定義上 0) | \(1.66\) |
| SCF 反復 | 16 | 29 |
まず磁化である。nspin=2 の出力には、total magnetization という行が新しく現れ、\(3.32\ \mu_\text{B}/\text{cell}\) という値が立つ。これは単位胞ぜんたいの磁化で、2 原子で割れば原子あたり \(M = 1.66\ \mu_\text{B}/\text{atom}\) になる。nspin=1 の出力には、この行がそもそも存在しない。地図が一枚で偏れない以上、報告すべき磁化がないからである。\(M\) という数は、二枚の地図を許してはじめて出力に生まれる量だと言える。
次に全エネルギーである。同じ条件で比べると、FM の全エネルギー \(-753.447\) Ry/cell は、NM の \(-753.412\) Ry/cell より低い。差は約 \(0.035\) Ry/cell で、原子あたりに直すと
\[ \Delta E_{\text{FM-NM}} \approx -0.24\ \text{eV/atom} \]
となる。負号は「FM の側がエネルギー的に好まれる」ことを意味する。スピンをそろえて偏らせたほうが、エネルギーが下がる――これが、コバルトが計算機の中でも磁石になりたがる、という最初の手応えである。ただし、この引き算を丁寧に詰め、k 点や degauss を変えても符号が揺るがないかを確かめる作業は第9章にあずける。ここでは「同じ土俵で引くと FM が約 \(0.24\) eV/atom 低い」という事実を握っておけば十分である。
出力に現れた \(M = 1.66\ \mu_\text{B}/\text{atom}\) について、一つだけ釘を刺しておく。これは計算が直接返すスピンの偏りであって、実験で測る磁石の強さ――飽和磁化――とそのまま同じ顔ではない。両者を突き合わせるには、質量密度やモル質量を通じた単位の翻訳が一手要る。この翻訳を省いて \(\mu_\text{B}/\text{atom}\) をそのまま磁石の強さと読むと、後で足をすくわれる。いまは混同しないことだけ押さえ、突き合わせの作法は第12章に持ち越す。
小課題 3.1
smoke 束の NM 計算と FM 計算について、
入力で異なる行はどれとどれか。
nspinのほかにもう一つ挙げよ。出力に現れる磁化 \(M = 1.66\ \mu_\text{B}/\text{atom}\) と、全エネルギー \(-753.447\) Ry/cell・\(-753.412\) Ry/cell は、それぞれ
nspin=1とnspin=2のどちらから出た値か整理せよ。- で FM が NM より低いことから、何が言えて、何はまだ言えないかを一言ずつ述べよ。
解答例
異なるのは
nspin(\(1\) か \(2\) か)と、nspin=2のときだけ要るstarting_magnetization(1)=0.7の二点。結晶構造・カットオフ・k 点などは同一にそろえてある。同じ土俵で引き算をするためである。\(M = 1.66\ \mu_\text{B}/\text{atom}\) は
nspin=2(FM)から出る。出力のtotal magnetization(\(3.32\ \mu_\text{B}/\text{cell}\))を 2 原子で割った値である。nspin=1(NM)はスピンを区別しないので、この行そのものがなく \(M = 0\)。全エネルギーは \(-753.447\) Ry/cell が FM、\(-753.412\) Ry/cell が NM。FM が約 \(0.035\) Ry/cell(\(\approx 0.24\) eV/atom)低い。言えること:同じ条件のもとで、強磁性の解が非磁性の解よりエネルギー的に好まれる。まだ言えないこと:この差が k 点や
degaussの取り方に対して頑健かどうか(第9章)、そして \(M\) が実験の飽和磁化や室温での磁石らしさと結びつくかどうか(第12章)。「FM 解を好む」と「磁石としての性質を再現できた」は、まだ別の主張である。
よくある誤解
「starting_magnetization(1)=0.7 と入れたのに、出力の \(M\) が \(1.66\) になっている。入力した \(0.7\) はどこへ消えたのか」と戸惑うことがある。これは消えたのではなく、役割が違う。starting_magnetization は探索の出発点を与える初期条件で、SCF の反復が回るうちに、エネルギーが下がる方向へ磁化が育っていく。行き着いた先の磁化が \(M = 1.66\) である。出発点の数と到達点の数が一致しないのは当然で、むしろ出発点を変えても到達点がほぼ同じになることこそ、解が初期値に依らない証拠になる。その確認は第8章で行う。
4 この章のまとめ
nspinは、電子密度の地図を何枚持つかを切り替えるフラグである。nspin=1(NM)は上下共通の一枚で偏れず \(M=0\)、nspin=2(FM)は上・下別々の二枚を持ち、その差がスピン磁気モーメント \(M\) になる。- 入力側で増える行は
nspinとstarting_magnetizationの二点に集約される。starting_magnetizationは探索の出発点であって答えではない(第8章で回収)。 - 出力側では、
nspin=2にだけtotal magnetizationの行が現れ、\(M = 1.66\ \mu_\text{B}/\text{atom}\) が読める。全エネルギーは FM が NM より約 \(0.24\) eV/atom 低く、コバルトが磁石になりたがる最初の手応えになる。引き算の頑健さの検討は第9章へあずける。 - 出てきた \(M = 1.66\ \mu_\text{B}/\text{atom}\) は、計算が返すスピンの偏りであって、実験の飽和磁化と直結はしない。突き合わせには単位の翻訳が要る。この区別が本書の背骨で、終章まで持ち越す。
- 次章では、この FM 計算の入力ファイルを一行ずつ「物理の供述書」として読み解いていく。