6 高磁場で直接見る ― 60 T のレベル交差
基底状態のすぐ上に磁性状態があるなら、十分に強い磁場で両者を入れ替えられるはずだ。
60 テスラ――その巨大磁場が、100 K スケールのスピン励起を直接たたき起こす。
だが、なぜすべての Co が一斉に入れ替わらないのか。
1 磁場でレベルを入れ替える
これまで、磁性の励起状態は「温度で熱励起される」ものとして扱ってきた。本章では、まったく別の動かし方を使う。磁場である。
磁性状態はスピンをもつので、磁場 \(H\) の中ではゼーマンエネルギーを得て、エネルギーが下がる向きの状態が生まれる。磁場が強いほど、その状態は基底状態に近づいていく。そして、ある磁場 \(H_c\) で、磁性状態のエネルギーが非磁性の基底状態と一致する。これを レベル交差 と呼ぶ。レベル交差が起きると、基底状態が非磁性から磁性へ入れ替わり、磁化が突然立ち上がる。これが 磁場誘起スピン状態転移 である。
レベル交差の条件は、ゼーマンエネルギーが励起エネルギー \(\Delta\) を埋める、というものだ。
\[ \Delta \;\simeq\; g\,\mu_{\mathrm B}\,H_c \tag{1}\]
ここで \(\mu_{\mathrm B}\) はボーア磁子(スピンの磁気モーメントの基本単位)、\(g\) は第4章で出てきた g 因子である。この式は、本書のここまでの伏線――\(\Delta\) と \(g = 3.35\)――を、一つの磁場の値 \(H_c\) に結びつける。
便利な換算:\(\mu_{\mathrm B}/k_{\mathrm B} \simeq 0.672\ \mathrm{K/T}\)
エネルギーを温度(K)で、磁場をテスラ(T)で測ると、ボーア磁子は \[ \frac{\mu_{\mathrm B}}{k_{\mathrm B}} \simeq 0.672\ \mathrm{K/T} \] という覚えやすい値になる。「1 テスラの磁場は、\(g=1\) のスピンを約 0.672 K だけ動かす」と読める。これを使うと 式 1 が電卓だけで計算できる。
2 60 T で何が起こるか ― 磁化の跳躍
著者ら(佐藤ら、2009 年)は、LaCoO₃ の磁化を 67 T までのパルス磁場で測定した。次の図がその結果である。
図 1 を見ると、磁化は 50 T あたりまではゆるやかに増えるだけだが、約 60 T で急に跳ね上がる。これがレベル交差の瞬間である。磁場が励起状態を基底状態の高さまで押し下げ、関与する Co のスピン状態が磁性へ切り替わったのである。温度という「ぼんやりした」道具ではなく、磁場という「鋭い」道具で、スピン状態転移を狙い撃ちした瞬間といえる。ただし、跳躍の大きさ(約 \(0.47\,\mu_{\mathrm B}\))からわかるように、切り替わるのは結晶中のすべての Co ではない――どの Co が関与しているのかは、本章の後半で明らかになる。
この転移磁場 \(H_c \approx 60\,\mathrm{T}\) と、式 1 の関係を使えば、励起エネルギー \(\Delta\) を逆算できる。次がこの章の中心的な計算である。
小課題 6-1:60 T から励起エネルギーを見積もる
転移磁場 \(H_c = 60\,\mathrm{T}\)、g 因子 \(g = 3.35\) を使い、式 1 と換算 \(\mu_{\mathrm B}/k_{\mathrm B} \simeq 0.672\ \mathrm{K/T}\) から、励起エネルギー \(\Delta\) を温度(K)で見積もれ。
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式 1 より \[ \Delta \simeq g\,\frac{\mu_{\mathrm B}}{k_{\mathrm B}}\,H_c = 3.35 \times 0.672\ \mathrm{K/T} \times 60\ \mathrm{T} \simeq 135\ \mathrm{K}. \] 得られた \(\Delta \approx 135\,\mathrm{K}\) は、ESR や磁歪(第5章)から見積もられた \(\Delta \approx 140\,\mathrm{K}\)、および 100 K の磁化率ピーク(第1章)と、同じエネルギースケールに収まる。磁場・磁歪・ESR という三つの独立な手法が、この低エネルギー励起を支持しているのである。
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この一致は重要である。第5章の磁歪(格子)、第4章で触れた ESR(磁気共鳴)、そして本章の磁場誘起転移(磁場)。原理のまったく異なる三つの手法が、\(\Delta \approx 135\)〜\(140\,\mathrm{K}\) という同じエネルギースケールの低エネルギー励起を指した。 散らばった証拠が一点に収束したのである。
\(\Delta = 135\,\mathrm{K}\) は 100 K の山「全体」を説明する値ではない
ここで一致したのは、60 T で転移する少数派の Co(次節で見る Co_I)の低エネルギー励起である。第1章で見た 100 K の磁化率の山「全体」は、これだけでは説明できない。山の大部分は、励起エネルギーがもっと高い多数派の Co(Co_II)の熱励起が担っている。「同じ \(\Delta \approx 135\,\mathrm{K}\)」が指しているのは、あくまで Co_I に対応する一本の励起だと理解しておくこと。
\(\Delta \simeq g\mu_{\mathrm B}H_c\) から、\(H_c = 60\,\mathrm{T}\) は \(\Delta \approx 135\,\mathrm{K}\) を意味する。磁歪・ESR・磁場誘起転移という独立な手法がこの低エネルギー励起を支持することは、その実在を強く裏づける。ただしこれは 100 K の山全体の励起エネルギーではなく、少数派 Co_I の励起である。
3 エネルギー準位図を読む
この交差を、エネルギーの図で直接見てみよう。
図 2 の読み方はこうだ。磁場ゼロでは、非磁性の \(s=0\)(赤い水平線)が基底状態で、磁性の \(s=1\) 三重項は約 135 K 上にある。磁場をかけると、\(s=1\) はゼーマン効果で三本(\(m=0, \pm 1\))に分かれる。このうち \(m=+1\) の枝(青い直線)が磁場とともにエネルギーを下げていき、約 60 T で \(s=0\) の線と交わる。この交点が、図 1 で見た磁化の跳躍の正体である。図中の「60 T」の矢印が、その瞬間を指している。
式 1 は、この図の幾何そのものである。青い線の傾きが \(g\mu_{\mathrm B}\)、ゼロ磁場での高さが \(\Delta\)。だから交点の磁場は \(H_c = \Delta/(g\mu_{\mathrm B})\) で決まる。先の計算は、この図を数式で読んだだけなのである。
図の \(s=1\) は「有効三重項」
図 2 の \(s=1\) は、第2章の IS(\(S=1\))とは別物である。これは、スピンと軌道角運動量が組み合わさってできた 有効的な三重項で、大きな g 因子(\(g=3.35\))はこの軌道角運動量に由来する。\(s=1\) と書いてあるからといって IS(\(S=1\))だと早合点しないこと。むしろ、この大きな g をもつ三重項は、軌道の自由度を残した HS 的な性格をもつと解釈されている(第4章の「大きな g 因子は HS の指紋」を参照)。
4 なぜ全部の Co が一斉に転移しないのか
ここで、本章のもっとも深い問いに突き当たる。図 1 の跳躍は約 \(0.47\,\mu_{\mathrm B}\) にすぎない。もし結晶中のすべての Co が一斉に磁性状態へ転移したなら、磁化はもっと大きく跳ぶはずだ。実際、計算すると、転移に関与しているのは全 Co のうち最大でも 14〜15 % 程度でしかない。
残りの大多数の Co はどこへ行ったのか。著者らは、磁化のデータをうまく説明するために、LaCoO₃ の Co を性質の異なる二種類に分けて考えた。
| 種別 | 割合 | 励起エネルギー | g 因子 | 励起状態 | 役割 |
|---|---|---|---|---|---|
| Co_I | 約 15 % | \(\Delta_{\mathrm I} \approx 135\,\mathrm{K}\) | \(g_{\mathrm I} = 3.35\) | HS 的 | 約 60 T の磁場誘起転移を担う |
| Co_II | 約 85 % | \(\Delta_{\mathrm{II}} \approx 220\)〜\(250\,\mathrm{K}\) | \(g_{\mathrm{II}} \approx 2.0\) | IS 的 | 100 K 以上の熱励起磁化を担う |
Co_I は励起エネルギーが低く(約 135 K)、g 因子が大きい。これが 60 T で転移する少数派である。一方、大多数の Co_II は励起エネルギーが高く(解析により約 220〜250 K)、g 因子は普通に近い。Co_II は 60 T では転移しないが、高温では熱励起されて、第1章の 100 K の山の主要部分を担う。
Co_I・Co_II は「モデルの分類」である
Co_I と Co_II は、結晶を顕微鏡で覗いて見分けられる二種類の原子ではない。磁化のデータをよく再現するように導入された現象論的な分類である。「約 15 %」「\(\Delta_{\mathrm I} \approx 135\,\mathrm{K}\)」といった数値も、このモデルのフィットから得た値であって、直接の観測量ではない。表中の「HS 的」「IS 的」も、著者らが提案した解釈である。確実な事実(60 T の転移、跳躍が全 Co の一部であること)と、それを説明するための解釈(二種類の Co)を、区別して読むこと。
ここで第1章の 図 1 を思い出してほしい。あのとき「色のついた曲線は後の章で扱う」と言った。その曲線こそ、この Co_I(\(M_{\mathrm I}\))と Co_II(\(M_{\mathrm{II}}\))の寄与に磁化を分解したものだった。第1章で読み飛ばした曲線が、ここでようやく意味を持つ。
60 T で転移するのは全 Co の約 15 %(Co_I)にすぎない。著者らは、励起エネルギーも g 因子も異なる二種類の Co(Co_I・Co_II)の共存を提案した。第4章の HS/IS 論争は、ここで「どちらか一方」ではなく「HS 的な Co_I と IS 的な Co_II が共存する」という描像へと進みはじめる。
5 小課題
小課題 6-2:Co_II は何テスラで転移するか
Co_II の励起エネルギーを \(\Delta_{\mathrm{II}} \approx 250\,\mathrm{K}\)、g 因子を \(g_{\mathrm{II}} \approx 2.0\) とする。式 1 から、Co_II をレベル交差させるのに必要な磁場 \(H_c^{\mathrm{II}}\) を見積もれ。なぜ Co_II は 60 T では転移しないのかを説明せよ。
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\[ H_c^{\mathrm{II}} \simeq \frac{\Delta_{\mathrm{II}}}{g_{\mathrm{II}}\,(\mu_{\mathrm B}/k_{\mathrm B})} = \frac{250\ \mathrm{K}}{2.0 \times 0.672\ \mathrm{K/T}} \simeq 186\ \mathrm{T}. \] Co_II の転移にはおよそ 186 T もの磁場が必要で(\(\Delta_{\mathrm{II}}\) を 220〜250 K の幅で取ると約 160〜190 T)、いずれにせよ測定上限の 67 T をはるかに超える。だから Co_II は 60 T では転移せず、磁化の跳躍には寄与しない。Co_II が磁性を示すのは、もっぱら高温での熱励起を通じてである。励起エネルギーが高く g 因子が小さいほど、レベル交差に必要な磁場は大きくなる。
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小課題 6-3:三つの窓の一致を述べる
少数派 Co_I の励起エネルギー \(\Delta_{\mathrm I} \approx 135\)〜\(140\,\mathrm{K}\) は、本書のどの三つの独立な手法から支持されるか。それぞれ一言で挙げ、「独立な手法が一致すること」がなぜ重要かを述べよ。
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- ESR(磁気共鳴で大きな g 因子の励起三重項を捉える、第4章)。(2) 第5章の磁歪(スピンと格子の結合、格子という窓)。(3) 本章の 60 T 磁場誘起転移(レベル交差、磁場という窓)。原理のまったく異なる三つの手法が同じ低エネルギー励起を指すことは、それが特定の測定法の癖や解析の都合で出た見かけの値ではなく、物質に実在する性質であることを強く裏づける。独立な証拠の一致は、単独の精密測定よりも信頼できることが多い。なお、これは Co_I の励起についての一致であり、100 K の山全体の説明とは区別される。
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6 歴史的位置づけと次への問い
60 T の磁場誘起転移は、LaCoO₃ 研究のひとつの到達点である。ばらばらだった証拠(熱励起・磁歪・ESR)が一つの励起エネルギーに収束し、しかも「Co_I と Co_II の二種が共存する」という新しい構造が見えてきた。第4章の HS/IS 論争は、「どちらか」ではなく「両方が別々の Co として共存する」という形へ進みはじめた。
だが、新しい問いが生まれる。
なぜ、結晶学的には同じはずの Co サイトに、性質の違う Co_I と Co_II が共存できるのか? もし外から手を加えて、磁性をもつ第三の Co を作り出せたら、何が起こるのか?
次章では、LaCoO₃ に微量の Sr を置換する。たった一つのホールが、周囲の多数の Co のスピン状態を一気に変えてしまう――その現象から、第三の Co、すなわち Co_III が姿を現す。