3  初期模型 ― 二準位の熱励起

基底状態 LS のすぐ上に磁性状態が控えている。
ならば、温度を上げたときにそれがどれだけ「目を覚ます」かを見積もれば、100 K の山が説明できるはずだ。

1 道具はボルツマン因子ひとつ

前章までで、舞台は整った。基底状態は非磁性の LS、そのすぐ上に磁性をもつ励起状態(IS か HS)が、わずかなエネルギー差 \(\Delta\) をおいて控えている。この状況を、いちばん単純な形にしたのが 二準位模型 である。下に非磁性の基底状態、上に磁性の励起状態。あいだのエネルギー差を 励起エネルギー \(\Delta\) と書く。

問題は、温度 \(T\) のとき励起状態がどれだけ占有されるかである。これを決めるのが、統計力学の最も基本的な道具 ボルツマン因子 だ。エネルギーが \(\Delta\) だけ高い状態の占有は、温度 \(T\) に対しておおよそ

\[ \text{(励起状態の人口)} \;\propto\; \exp\!\left(-\frac{\Delta}{k_{\mathrm B}T}\right) \tag{1}\]

に比例する。ここで \(k_{\mathrm B}\) はボルツマン定数で、\(k_{\mathrm B}T\) は「その温度で自然にやりとりされるエネルギーの大きさ」を表すものさしである。式 1 の意味はこう読める。

  • \(k_{\mathrm B}T \ll \Delta\)(低温):指数の中が大きな負になり、人口はほぼゼロ。励起状態は眠ったまま。
  • \(k_{\mathrm B}T \sim \Delta\)\(T \sim \Delta/k_{\mathrm B}\)):人口が一気に立ち上がる。
  • \(k_{\mathrm B}T \gg \Delta\)(高温):人口は飽和し、基底と励起がほぼ同じくらい占有される。

温度をケルビンで測る便利さ

エネルギー \(\Delta\) を、わざわざジュールや電子ボルトにせず、温度の単位 K(ケルビン) で表すことが多い。\(\Delta = k_{\mathrm B}\times(130\,\mathrm{K})\) を単に「\(\Delta = 130\,\mathrm{K}\)」と書くのである。こうすると 式 1\(\exp(-\Delta/T)\) と簡潔になり、「励起エネルギーが 130 K なら、その程度の温度で励起状態が目を覚ます」と直感的に読める。本書ではこの流儀を使う。

2 縮重を忘れない

式 1 はまだ不完全である。励起状態は磁性をもつので、スピンの向きの分だけ「席」が複数ある。前章で見たスピン多重度 \(2S+1\) がその席数(縮重度)だ。基底状態 LS は \(S=0\) なので席は 1 つ、励起状態が例えば HS(\(S=2\))なら席は 5 つある。席が多い状態ほど占有されやすいので、人口の比は縮重度の比でも重みづけされる。

\[ \frac{\text{(励起状態の人口)}}{\text{(基底状態の人口)}} \;=\; \frac{d_{\mathrm{ex}}}{d_{0}}\,\exp\!\left(-\frac{\Delta}{k_{\mathrm B}T}\right) \tag{2}\]

ここで \(d_0\) は基底状態の縮重度(LS なら 1)、\(d_{\mathrm{ex}}\) は励起状態の縮重度(\(2S+1\))である。縮重度を \(d\) と書くのは、第4章以降で別の意味の記号 \(g\)(g 因子)が出てくるため、混同を避けるためである。磁性が立ち上がる速さは、\(\Delta\) だけでなく、この縮重度の比にも左右される。この事実は、後の章で「励起状態が HS か IS か」を磁化の大きさから議論するときに効いてくる。

3 なぜ山ができるのか

二準位模型は、図 1 の山を説明できるだろうか。磁化率への寄与は、ざっくり二つの因子の積で決まる。

  1. 磁性状態がどれだけ占有されているか――式 2 に従い、温度とともに増える。
  2. 占有された磁気モーメントが磁場にどれだけ揃うか――これは普通の常磁性と同じで、温度が上がるほど熱でかき乱されて揃いにくくなる(Curie 則の \(1/T\))。

この二つは逆向きに働く。低温では (1) が小さすぎて磁化率は出ない。高温では (2) が効いて磁化率が下がる。両者がちょうど釣り合う中間の温度で、磁化率は 極大(山)をつくる。次の概念図がこの仕組みを示している。

図 1: 二準位(非磁性の基底+磁性の励起)模型がつくる磁化率の山(概念図)。(a) 励起状態の人口は 式 1 に従い、\(T\sim\Delta/k_{\mathrm B}\) で立ち上がる。(b) 人口の増加(立ち上げ)と Curie 則の \(1/T\)(高温で減衰)が競合し、磁化率 \(\chi\) は中間温度で極大をとる。本書のための概念図。

図 1 (b) の山の形は、前章で見た 図 1 の白丸(測定値)の山と、定性的によく似ている。100 K の山は、相転移ではなく、非磁性の基底状態の上に磁性状態が熱励起されることで自然に現れる――これが、LaCoO₃ 研究の最初の、そして今も骨格として生き残っている描像である。

非磁性の基底状態+磁性の励起状態という二準位を考え、ボルツマン因子で励起状態の人口を見積もるだけで、磁化率の山が定性的に再現できる。100 K の山は熱励起の人口変化の現れである。

4 励起エネルギーはどのくらいか

山の位置(極大温度)は、励起エネルギー \(\Delta\) でおおよそ決まる。山がだいたい \(T \sim \Delta/k_{\mathrm B}\) のあたりに来ることを使うと、100 K 付近に山があることから、\(\Delta\) は 100 K のオーダーだと逆算できる。

実際、歴史的にこの励起エネルギーは およそ 130〜270 K と見積もられてきた(2014 年の置換系研究での整理)。100 K の山と同じオーダーであり、二準位模型の見立てとつじつまが合う。数値そのものが研究ごとにばらつくのは、励起状態を HS とみるか IS とみるか、縮重度をどう取るかで結果が変わるからである。このばらつきこそ、次章の論争の入り口になる。

小課題 3-1:人口比を見積もる

励起エネルギーを \(\Delta = 150\,\mathrm{K}\) とし、縮重度の比は簡単のため \(d_{\mathrm{ex}}/d_0 = 1\) とする。式 2 を使って、(a) \(T = 30\,\mathrm{K}\)、(b) \(T = 150\,\mathrm{K}\)、(c) \(T = 300\,\mathrm{K}\) での励起状態と基底状態の人口比を求め、低温で励起状態がほぼ眠っていることを確かめよ。

解答例を見る

\(\dfrac{n_{\mathrm{ex}}}{n_0} = \exp(-150/T)\) を計算する。

    1. \(T=30\)\(\exp(-5) \approx 6.7\times10^{-3}\)。約 0.7 %。ほぼ眠っている。
    1. \(T=150\)\(\exp(-1) \approx 0.37\)。基底の約 37 %。立ち上がってきた。
    1. \(T=300\)\(\exp(-0.5) \approx 0.61\)。基底の約 61 %。さらに増えている。

低温(30 K)では励起状態の人口は 1 % 未満で、図 1 の低温側で磁化がほぼゼロだったことと整合する。

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小課題 3-2:山の起源を説明する

「二準位模型では、なぜ磁化率に山(極大)ができるのか」を、(1) 励起状態の人口、(2) Curie 則の \(1/T\)、という二つの競合する因子を使って説明せよ。

解答例を見る

低温では励起状態の人口がほぼゼロなので、磁性モーメント自体が存在せず磁化率は小さい。温度を上げると人口が立ち上がり、磁性モーメントの数が増えて磁化率が大きくなる。しかし高温では、Curie 則の \(1/T\) の因子が効いて、存在するモーメントが熱でかき乱されて磁場に揃いにくくなる。人口の増加(昇温で増える)とモーメントの整列のしにくさ(昇温で減る)が逆向きに競合するため、両者が釣り合う中間温度で磁化率が極大をとる。

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5 模型はすぐ壁に当たる

二準位模型は強力である。たった一つのボルツマン因子で、半世紀問われ続けた山の骨格を説明してしまう。だが、この単純さの裏で、決定的な問いが手つかずのまま残っている。

励起される「磁性状態」とは、HS(\(S=2\))なのか、IS(\(S=1\))なのか?

式 2 を見ればわかるように、人口の立ち上がり方は縮重度 \(d_{\mathrm{ex}}=2S+1\) に依存する。HS なら 5、IS なら 3。さらに磁化の大きさは \(S\) そのものに依存する。同じ「山」を説明するにも、励起状態を HS とするか IS とするかで、必要な \(\Delta\) も縮重度もモーメントの大きさも変わる。一つの磁化率曲線だけからは、両者を一意に決められないのである。

ここから、LaCoO₃ 研究はもっとも長く激しい論争の時代に入る。次章では、その HS か IS か をめぐる攻防を、電子構造計算・格子の歪み・ESR・中性子散乱という複数の証拠から読み解いていく。