2  Co³⁺ のスピン状態

前章の「磁性をもつ状態」の正体を探る。
鍵は、結晶の中心に座るコバルトイオンの 6 個の電子が、どの軌道に、どんな向きで並ぶかにある。

1 d⁶ という出発点

LaCoO₃ の中心には、コバルトイオン Co³⁺ が座っている。中性のコバルト原子から電子を 3 つ取り去ったイオンで、外殻に残る 3d 電子は 6 個である。これを d⁶ と呼ぶ。前章で問題にした「磁性をもつ状態」が何かを知るには、この 6 個の電子の並び方を読む必要がある。

孤立したイオンなら、5 つの d 軌道はすべて同じエネルギーをもつ。しかし結晶の中の Co³⁺ は孤立していない。周りを 6 個の酸素イオンが八面体状に取り囲み、CoO₆ 八面体 をつくっている。この酸素がつくる静電的な環境――結晶場――が、軌道の向きによってエネルギーをずらす。

酸素のほうへまっすぐ伸びた軌道は、負電荷をもつ酸素と強く反発して持ち上がる。酸素と酸素のあいだを縫うように伸びた軌道は、相対的に下がる。その結果、5 つの d 軌道は二つのグループに分裂する。

t₂g と e_g

八面体結晶場では、下に 3 本の軌道(t₂g と総称)、上に 2 本の軌道(e_g と総称)が並ぶ。この呼び名は群論に由来するが、本書では「下 3 本・上 2 本」という分裂の事実だけを使えばよい。両者のエネルギー差を 結晶場分裂幅 \(\Delta_{\mathrm{cf}}\) と書く。

2 二つの力の綱引き

6 個の電子を「下 3 本・上 2 本」へどう配るか。これは、二つの力のせめぎ合いで決まる。

一方は、いま述べた 結晶場分裂 \(\Delta_{\mathrm{cf}}\) である。これは「エネルギーの低い下の t₂g にできるだけ電子を詰めたほうが得だ」という、電子を下へ押し込もうとする力にあたる。

もう一方は Hund 結合(フント結合) で、これは「同じ向きのスピンをできるだけ多く揃えたい」という力である。スピンを揃えるには、電子どうしが別々の軌道に入って距離をとる必要がある。そのためには、上の e_g まで電子を持ち上げなければならない。

つまり \(\Delta_{\mathrm{cf}}\) は電子を下に集めたがり、Hund 結合は電子を上にばらまいてスピンを揃えたがる。この 綱引き の力関係で、6 個の電子の並び方が決まる。

電子配置は、電子を下へ押し込む \(\Delta_{\mathrm{cf}}\) と、スピンを揃えたい Hund 結合の綱引きで決まる。LaCoO₃ では両者が拮抗するため、配置が一通りに定まらない――ここが面白さの源である。

3 三つのスピン状態 LS・IS・HS

綱引きの結果として、d⁶ の Co³⁺ には代表的な三通りの並べ方がある。それぞれを 低スピン(LS, low spin)中間スピン(IS, intermediate spin)高スピン(HS, high spin) と呼ぶ。次の図は、著者ら(2025 年)の論文がこの三状態を導入するために描いた図である。

図 1: Co³⁺(d⁶)の三つのスピン状態。下段が t₂g(3 本)、上段が e_g(2 本)。赤矢印は電子とそのスピンの向き。左から低スピン LS(\(S=0\))、中間スピン IS(\(S=1\))、高スピン HS(\(S=2\))。図:著者作成(概念図)。電子配置は教科書的な事実に基づく。

図 1 を、左から順に読もう。

  • 低スピン LS:6 個すべてを下の t₂g に詰める(t₂g⁶ e_g⁰)。3 本の軌道がすべて上向き・下向きのペアで埋まり、対をなさない電子は残らない。揃ったスピンがないので 磁性をもたない
  • 中間スピン IS:1 個を e_g に上げる(t₂g⁵ e_g¹)。対をなさない電子が 2 個でき、中くらいの磁性をもつ。
  • 高スピン HS:2 個を e_g に上げる(t₂g⁴ e_g²)。対をなさない電子が 4 個になり、強い磁性をもつ。

各状態の スピン量子数 \(S\) は、対をなさない電子(揃った向きの電子)1 個あたり \(1/2\) ずつ増える。磁性の担い手になるのはこの \(S\) で決まる スピン多重度 \(2S+1\) である。整理すると次のようになる。

状態 配置 対をなさない電子 \(S\) スピン多重度 \(2S+1\) 磁性
低スピン LS t₂g⁶ e_g⁰ 0 0 1 なし
中間スピン IS t₂g⁵ e_g¹ 2 1 3
高スピン HS t₂g⁴ e_g² 4 2 5

ここで前章の謎とつながる。低温で LaCoO₃ が非磁性に見えたのは、Co³⁺ が磁性をもたない LS 状態にあるからだと考えられる。そして温めると磁性が立ち上がったのは、磁性をもつ IS や HS の状態が熱で「目を覚ます」からではないか――こう見立てるのである。

低温の非磁性は LS(\(S=0\))に対応する。前章で見た「温度とともに増える磁性状態」とは、熱で励起される IS(\(S=1\))または HS(\(S=2\))の候補である。

4 田辺・菅野図は名前だけ

どの状態が安定かは、\(\Delta_{\mathrm{cf}}\) と Hund 結合の比で決まる。この関係を図にしたものを 田辺・菅野図(Tanabe–Sugano 図) と呼ぶ。\(\Delta_{\mathrm{cf}}\) が大きければ LS が、Hund 結合が勝てば HS が安定になる。ここで注意したいのは、孤立イオンの単純な田辺・菅野図では、低エネルギーの主役はおもに LS と HS だという点である。IS は、この単純な描像では中間的な候補にとどまり、第4章で見るように、酸素との混成やヤーン・テラー効果まで含めて初めて低エネルギーに来うる。だから「LS・IS・HS が等しく並ぶ三択」と思い込まないほうがよい。

本書では、この図は 名前だけ 知っておけば十分である。詳しい項記号(\(^1A_1\)\(^5T_2\) といった記法)には立ち入らない。覚えておくべきことは一つだけ――LaCoO₃ では \(\Delta_{\mathrm{cf}}\) と Hund 結合がほぼ拮抗しており、LS が基底状態になるが、その上にわずかなエネルギー差で磁性状態が控えているということである。この「わずかなエネルギー差」が、次章の主役になる。

LS が基底状態であることは合意、その上は論争

「LaCoO₃ の基底状態が LS である」ことは、多くの研究でおおむね合意されている。だが、その上に控える磁性状態が HS なのか IS なのか は、長く論争の的になってきた。この論争そのものが本書の核(第4章)である。本章ではまず、三つの状態を区別できるようにしておけばよい。

5 小課題

小課題 2-1:電子を配置する

d⁶ の 6 個の電子を、t₂g(3 本)と e_g(2 本)に、LS・IS・HS の三通りに配置せよ。各配置で「対をなさない電子」が何個になるかを数え、\(S\)\(2S+1\) を求めよ。

解答例を見る

  • LS:t₂g に 6 個(3 本すべてペア)、e_g は空。対をなさない電子 0 個、\(S=0\)\(2S+1=1\)
  • IS:t₂g に 5 個、e_g に 1 個。対をなさない電子 2 個、\(S=1\)\(2S+1=3\)
  • HS:t₂g に 4 個、e_g に 2 個。対をなさない電子 4 個、\(S=2\)\(2S+1=5\)

図 1 の赤矢印の本数(揃った向きの矢印)を数えても同じ結果が得られる。

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小課題 2-2:安定状態を言葉で説明する

「結晶場分裂 \(\Delta_{\mathrm{cf}}\) がとても大きい物質」と「Hund 結合が勝つ物質」では、それぞれどのスピン状態が安定になるか。理由とともに述べよ。また、LaCoO₃ がこの両極端のどちらでもないことが、なぜ研究上の面白さにつながるかを一文で述べよ。

解答例を見る

\(\Delta_{\mathrm{cf}}\) がとても大きい物質では、電子を上の e_g に持ち上げる損が大きすぎるので、すべて下の t₂g に詰める LS が安定になる。Hund 結合が勝つ物質では、スピンを揃える利得が大きいので、電子を e_g に上げてでもスピンを揃える HS が安定になる。LaCoO₃ は両者が拮抗しているため、基底状態は LS でも、わずかな温度・圧力・置換で磁性状態が顔を出す。勝者が一意に決まらないからこそ、外から条件を変えて状態を動かす実験が意味をもち、研究が深まっていく。

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6 歴史的位置づけと次への問い

本章で、前章の謎に名前がついた。低温の非磁性は LS、昇温で立ち上がる磁性は熱励起された IS または HS だという見立てである。LaCoO₃ という物質の特異さは、結晶場分裂と Hund 結合がほぼ釣り合い、LS の基底状態のすぐ上に磁性状態が控えていることにある。

だが、まだ何も「計算」していない。次の問いはこうだ。

基底状態 LS のすぐ上に磁性状態があるなら、温度を上げたときにそれがどれだけ占有されるか――そして 100 K の山は、それで本当に説明できるのか?

次章では、この「上の状態が熱でどれだけ占有されるか」を、ボルツマン因子 というたった一つの道具で見積もる。研究史の最初の模型を、自分の手で組み立ててみよう。