4 HS か IS か ― 中心的論争
基底状態が LS であることは、ほぼ合意がある。
だが、その上に控える磁性状態は HS(\(S=2\))なのか、IS(\(S=1\))なのか。
一つの磁化率曲線からは決められないこの問いが、半世紀の論争になった。
1 合意と論争の境目
ここまでで、LaCoO₃ の謎は次のように整理された。基底状態は非磁性の LS、そのすぐ上に磁性状態が控え、温度を上げるとボルツマン因子に従って磁性状態が占有され、100 K の山が現れる。
この絵のうち、基底状態が LS であることは、多くの研究でおおむね合意されている。問題はその先だ。第3章の終わりで指摘したとおり、二準位模型の「磁性の励起状態」が HS なのか IS なのかは、一枚の磁化率曲線だけからは決められない。そして、この同定問題こそが、LaCoO₃ 研究をもっとも長く激しく揺らした論争である。本章では、その攻防を証拠ごとに読み解く。
なぜ HS と IS を区別したいのか
HS(t₂g⁴e_g², \(S=2\))と IS(t₂g⁵e_g¹, \(S=1\))は、磁性の大きさ(\(S\))も、軌道の埋まり方も、格子との結びつき方も違う。どちらが正しいかで、LaCoO₃ という物質の「正体」がまるで変わる。だからこそ、研究者はあの手この手で両者を区別しようとした。
2 IS を支持する証拠 ― 電子構造と格子
1990 年代以降、計算機による電子構造の研究が進むと、IS を支持する見方が有力になった時期がある。鍵は 混成(こんせい) である。
Co の e_g 軌道と、周りの酸素 O の 2p 軌道は、空間的に向かい合っているため強く混じり合う(混成する)。この混成を取り込んだ電子構造計算(LDA+U などと呼ばれる手法)では、e_g に電子を 1 個上げた IS 状態が、思ったより低いエネルギーに来る可能性が示された。混成によって e_g 電子のエネルギーが下がり、IS が安定化しうるのである。
さらに IS には、格子と結びつく特徴がある。IS は e_g 軌道が部分的にしか埋まっていないため、ヤーン・テラー効果(軌道の埋まり方の偏りが八面体をゆがめる効果)を起こしうる。実際、LaCoO₃ では温度とともに格子がやわらかくなったり、ゆがみが見えたりする現象が報告され、これらが「IS が関与している証拠」と解釈された。
IS を支持する論拠は二本柱である。第一に、Co-e_g と O-2p の混成によって IS が低エネルギーに来うること。第二に、IS は e_g が部分占有のためヤーン・テラー活性で、観測される格子のゆがみや軟化と結びつくこと。
3 HS を支持する証拠 ― 大きな g 因子
一方、磁気的な測定は別の答えを指していた。
電子スピン共鳴(ESR)や非弾性中性子散乱は、磁性状態のスピンを直接探る手法である。これらの測定は、LaCoO₃ の励起状態として、g 因子がおよそ 3 程度の磁性三重項を捉えた。本書の元になった研究でも、\(g = 3.35\)、励起エネルギーおよそ 140 K の状態が議論されている(第5・6章で詳しく使う)。
ここで g 因子 とは、スピンが磁場から受けるエネルギー(ゼーマンエネルギー)の大きさを決める係数で、普通の電子スピンなら \(g \approx 2\) である。ところが LaCoO₃ の励起状態は \(g \approx 3\) を超える。この異常に大きな g 因子は、軌道角運動量が生きている状態――すなわち軌道の自由度を残した HS に由来する、と解釈された。普通のスピンより大きく磁場に応答する状態が、磁気測定には見えていたのである。
\(g \approx 3.35\) は測定ミスではない
\(g = 3.35\) は、普通の電子スピンの \(g \approx 2\) よりずっと大きい。これを「異常だから誤り」と片づけてはいけない。大きな g 因子は、スピンに軌道角運動量が加わった有効的な磁性状態(HS 由来)の指紋である。ただし、この大きな g をそのまま磁化率の計算に使うと、今度は磁化率が大きくなりすぎるという別の困難が生じる。ここに論争の根深さがある。
4 どちらも完全ではない
証拠を並べると、IS と HS のどちらにも、強みと弱みがあることが見えてくる。次の表に整理する。
| 観点 | IS を支持する材料 | HS を支持する材料 |
|---|---|---|
| 電子構造 | Co-e_g と O-2p の混成で IS が低エネルギーに来うる | ESR・非弾性中性子で \(g \approx 3\) の磁性三重項を観測 |
| 格子・軌道 | IS は e_g 部分占有でヤーン・テラー活性、格子のゆがみ・軟化と整合 | HS でもスピン軌道相互作用や結晶場で有効三重項が出る |
| 弱点 | 単純な IS 模型だけでは全観測を説明しにくい | 大きな g 因子をそのまま使うと磁化率が大きくなりすぎる |
この表が示すのは、実験事実が一つの模型にきれいに収まらないという状況である。IS で説明できる現象もあれば、HS で説明できる現象もある。だが、どちらか一方だけですべてを説明することは難しい。
ここで大事な態度を一つ手にしてほしい。物理では、こうした「決着がつかない」状況は、議論が雑だからではなく、問いが本質的に深いから生じることが多い。LaCoO₃ の場合、後の章(第8章)で「HS と IS が共存しているのではないか」という見方にたどり着く。論争は、どちらかを捨てることではなく、両方が必要な物理を見つけることへと発展していく。
HS と IS は、どちらも一部の観測を説明し、どちらも別の観測でつまずく。実験が一つの模型に収まらないとき、物理は浅くなるのではなく深くなる。LaCoO₃ の論争は、やがて「HS と IS の共存」という描像へ向かう。
5 小課題
小課題 4-1:証拠を分類する
次の (1)〜(4) の観測は、IS を支持する証拠か、HS を支持する証拠か。理由とともに分類せよ。
(1) Co-e_g と O-2p の強い混成。
(2) ESR で観測された \(g \approx 3.35\) の磁性三重項。
(3) 温度とともに見られる格子のゆがみ・軟化。
(4) 非弾性中性子散乱で見えた磁性三重項。
解答例を見る
- IS:混成は e_g 電子のエネルギーを下げ、IS を低エネルギーに安定化しうる。
- HS:大きな g 因子は軌道角運動量が生きた HS の指紋。
- IS:e_g 部分占有によるヤーン・テラー活性が格子のゆがみ・軟化と結びつく。
- HS:磁性三重項を直接捉える磁気測定で、HS 由来と解釈された。
:::
小課題 4-2:論争の意味を述べる
「LaCoO₃ の励起状態が HS か IS か、長く決着しなかった」という事実から、科学のあり方についてどんな教訓を引き出せるか。本文の主張を踏まえ、自分の言葉で 3〜4 文で述べよ。
解答例を見る
一つの磁化率曲線だけでは、HS と IS を区別できない。異なる手法(電子構造計算・格子・ESR・中性子)はそれぞれ別の側面を捉え、互いに食い違う答えを返した。これは議論が雑だからではなく、問いが本質的に深く、現象が一つの単純な模型に収まらないために起きる。こうしたとき物理は、どちらかを捨てて決着させるのではなく、両方を必要とするより豊かな描像(HS と IS の共存など)へ進むことで深まっていく。
:::
6 歴史的位置づけと次への問い
HS か IS か――この論争は、磁化率という一つの観測量の限界をあらわにした。同じ山を説明するのに、二つの異なる状態が候補として残り、決着がつかない。ならば、磁化率以外の「別の窓」から LaCoO₃ を覗けば、新しい手がかりが得られるのではないか。
スピン状態の変化は、磁性だけでなく、結晶の形(格子)にも現れるはずだ。それを直接測れないか?
次章では、スピン状態が格子をどう動かすかを、磁歪(じわい)――磁場をかけると結晶が伸び縮みする現象――を通して見る。磁性だけを見ていては気づけなかった、スピンと格子の結びつきが姿を現す。