1 LaCoO₃ の謎
低温では磁石にほとんど反応しない結晶が、温めると磁性を帯び、さらに高温ではまた弱くなる。
なぜ、温度を上げると磁性が現れるのか――この一つの問いから、半世紀の物語が始まる。
1 一枚の曲線から始める
物理の研究史をたどるとき、最初に細かい理論から入ると道に迷う。LaCoO₃ の場合、出発点になるのはたった一枚の実験曲線――磁化(または磁化率)の温度依存性である。本章では、まずその曲線を「読む」ことだけに集中する。
普通の常磁性体では、温度を上げると磁化率は単調に小さくなっていく。原子のもつ磁気モーメントが熱でかき乱され、磁場に揃いにくくなるからである。これは後の章で扱う Curie 則 \(\chi \propto 1/T\) が表す振る舞いで、「冷やすほど磁性が強くなる」のが常識的な向きだ。
ところが LaCoO₃ はこの常識に逆らう。十分に低い温度では、磁場をかけてもほとんど反応しない。磁石を近づけても無反応、つまり 非磁性的に見える。ところが温度を上げていくと磁化が立ち上がり、100 K あたりで目立った山(極大)をつくる。さらに高温にすると、今度はゆるやかに減っていく。冷やせば磁性が消え、温めれば磁性が現れる――この「向きが逆」の振る舞いこそ、LaCoO₃ が長年研究され続けた理由である。
LaCoO₃ の出発点となる事実は一つだけ。低温で非磁性、昇温で磁化が立ち上がり 100 K 付近で極大をとる。この一枚の曲線が、本書全体の謎である。
2 著者の測定を読む
次の図は、LaCoO₃ の磁化 \(M\) の温度依存性を模式的に描いたものである。いまの段階で見てほしいのは、太い曲線(全体の磁化)の山だけでよい。細い二本の曲線(\(M_\mathrm{I}\), \(M_\mathrm{II}\))は、本書が第6章までかけて少しずつ組み立てていく「模型」による分解であり、ここでは無視してかまわない。
全体の曲線をたどると、振る舞いは三つの区間に分かれる。
- 低温側(おおむね 30 K 以下):磁化はほぼゼロに張りつく。結晶はこの温度域で「非磁性」に見える。
- 昇温(30〜100 K 付近):磁化が急に立ち上がり、100 K 前後で山をつくる。何かが温度とともに「目を覚ます」。
- 高温側(100 K 以上):山を越えると、磁化はゆるやかに下がっていく。
なお実際の測定では、数十 K 以下にごく微量の不純物・欠陥による小さな寄与も重なるが、これは LaCoO₃ の本質ではない。本書で問題にするのは、100 K 付近のなだらかな山のほうである。
「磁化」と「磁化率」
本書では、磁場 \(H\) をかけたときに物質が帯びる磁気の量を 磁化 \(M\)、その磁場あたりの応答 \(\chi = M/H\)(弱い磁場での比例係数)を 磁化率 と呼ぶ。図 1 は一定磁場 \(7\,\mathrm{T}\) での \(M\) だが、弱磁場では \(M \approx \chi H\) なので、\(M\) の温度依存と \(\chi\) の温度依存はほぼ同じ形になる。本章では両者を区別せず「磁性の強さ」として読んでよい。
3 なぜ「相転移」ではないのか
山を見ると、つい「100 K で何か新しい磁気秩序(強磁性など)に転移したのではないか」と考えたくなる。だが、それは正しくない。
強磁性転移なら、ある温度 \(T_{\mathrm C}\) を境に磁化が鋭く立ち上がり、その下で磁化が大きく成長する。図 1 の山は、そうした鋭い折れ曲がりを持たず、なだらかに盛り上がってなだらかに減る。これは「秩序が立つ/壊れる」型ではなく、温度とともに何かの量が連続的に増えていく型の振る舞いである。
ここに本書の中心的な見方の芽がある。100 K で磁性が突然「生まれる」のではない。温度を上げると、磁性をもつ何かの『数』が少しずつ増えていく――そう考えるべきなのだ。低温では数がゼロに近いから非磁性に見え、温度とともに数が増えて磁化が立ち上がり、やがて飽和や別の効果で頭打ちになって山ができる。
この「数が増える」主役が何なのかは、まだ言わない。それを突き止めるのが第2章以降の仕事である。ここではまず、山=相転移ではなく、熱による『人口変化』という見立てを手にしておく。
100 K の山は磁気秩序の転移ではない。温度とともに、磁性をもつ何かの個数が連続的に増えていく結果として理解すべき現象である。
4 小課題
小課題 1-1:常識との比較
普通の常磁性体では磁化率は \(\chi \propto 1/T\)(Curie 則)に従い、冷やすほど大きくなる。LaCoO₃ の 図 1 の全体の曲線はこれとどう違うか。「低温」「100 K 付近」「高温」の三つの温度域に分けて、一文ずつで説明せよ。
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- 低温:Curie 則なら冷やすほど磁化率は大きくなるはずだが、LaCoO₃ では逆に磁化がほぼゼロに落ちる。常磁性の常識と正反対である。
- 100 K 付近:Curie 則は単調なので山をつくらない。LaCoO₃ は極大をもつ点で根本的に異なる。
- 高温:山を越えた高温側では磁化が減っていく。この区間だけを見れば Curie 則と同じ「高温で減る」向きだが、低温側の振る舞いと合わせると単純な Curie 則では説明できない。
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小課題 1-2:山を言葉で説明する
「100 K の山は強磁性転移ではない」と本文は述べた。その理由を、(i) 曲線の形(鋭さ)と、(ii) 「人口変化」という見立て、の二点から自分の言葉で説明せよ。
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- 強磁性転移なら転移温度で磁化が鋭く折れ曲がって立ち上がるが、図 1 の山はなだらかに盛り上がってなだらかに減っており、鋭い折れ曲がりがない。(ii) なだらかな山は、温度とともに磁性をもつ状態の個数が連続的に増え、やがて頭打ちになると考えれば自然に説明できる。秩序が「立つ/壊れる」のではなく、状態の人口が連続的に変化していると見るほうが、曲線の形と整合する。
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5 歴史的位置づけと次への問い
LaCoO₃ の磁気的・電気的性質は、1950 年代から研究されてきた。半世紀以上にわたる研究の中心には、つねにこの 100 K 付近の磁化率ピーク があった。後の 2014 年の置換系研究(本書第8章)でも、この物質の出発点はやはりこのピークだと整理されている。
本章で手にしたのは、たった一つの見立てである――100 K の山は、熱によって磁性状態の人口が増えることの現れらしい。だが、ここからすぐに新しい問いが立ち上がる。
その「磁性をもつ状態」とは、いったい何なのか? なぜ低温ではそれがゼロに近く、温めると増えるのか?
答えの鍵は、結晶の中心に座る コバルトイオン Co³⁺ の電子の並び方 にある。次章では、この一つのイオンの電子配置を読むことから始めよう。