flowchart TB
subgraph FM["強磁性 FM ― 箱はそのまま"]
direction LR
F1["↑"] --- F2["↑"] --- F3["↑"] --- F4["↑"]
FB["磁気単位胞 = 構造の単位胞<br>(原子1個分で重なる)"]
end
subgraph AFM["反強磁性 AFM ― 箱が2倍に延びる"]
direction LR
A1["↑"] --- A2["↓"] --- A3["↑"] --- A4["↓"]
AB["磁気単位胞 = 構造の単位胞の2倍<br>(原子2個分でやっと重なる)"]
end
FM --> AFM
style FB fill:#d4edda,stroke:#28a745
style AB fill:#d1ecf1,stroke:#17a2b8
10 磁性は単位胞を変える条件
磁石になる、とは結晶の繰り返しにとって何を意味するのか。
スピンの向きは、私たちがここまで決めてきた「箱」と、どこで交わるのか。
この章のゴール:磁性が「組み上げた構造に後から足す物性」ではなく、ときに単位胞そのものを変える条件であることを説明でき、強磁性なら構造の箱のまま、反強磁性ならより大きな磁気単位胞が要る理由を言えるようになる。そして同じ Co を副格子ごとに分けて扱う意味を、QE の nspin・starting_magnetization まで結びつけられるようになる。
第3章の最後に、Co について一つ含みを残しておいた。Co は強磁性的な金属であり、原子のもつ磁気は「組み上げた構造に後から足す飾り」ではなく、ときに単位胞そのものを選び直させる条件になる――その回収を、いまここで行う。
ここまで本書は、結晶を格子ベクトルと基底に畳み、分率座標で住所を書き、波として眺め、八面体のゆがみを「酸素変位の波」として読んできた。原子の位置と種類だけで、ずいぶん遠くまで来た。だが原子には、位置と種類のほかにもう一つ、これまで横に置いてきた属性がある。スピン――原子が背負う小さな磁石の向きである。この章は、そのスピンが結晶の繰り返しにどう食い込むかを見る。
1 スピンも周期をもつ
磁性をもつ原子は、ひとつひとつが小さな棒磁石のようにふるまう。その向き――上向きか下向きか――をスピンと呼ぶことにしよう。ここで肝心なのは、結晶のスピンもまた、原子の位置と同じように規則正しく並ぶという点だ。
スピンが規則正しく並ぶなら、そこにも周期がある。そして周期があるなら、第1章で結晶そのものに対して立てた問いが、そっくりそのままスピンにも立つ。「この並びを、自分自身に重ねる平行移動は何か」。原子の位置を重ねる平行移動が並進ベクトル \(\mathbf{R}\) だったように、スピンの並びを重ねる平行移動も決まっている。問題は、その二つが一致するとは限らないことだ。
結晶には二つの周期がある。原子の位置がつくる構造の周期と、スピンの向きがつくる磁気の周期である。この二つが一致すれば、磁気は構造の箱にそのまま収まる。一致しなければ、磁気のほうが大きな箱を要求する。磁性が単位胞を変えるかどうかは、この一致・不一致で決まる。
では、一致する場合と一致しない場合を、いちばん単純な並びで見比べよう。原子を一直線に等間隔で並べた、1次元の鎖を使う。
2 強磁性 ― スピンが揃えば、箱は変わらない
まず、すべてのスピンが同じ向きに揃った並びを考える。鎖の上で書けば
\[ \uparrow\ \uparrow\ \uparrow\ \uparrow\ \uparrow\ \uparrow\ \cdots \]
となる。隣どうしが平行に揃ったこの状態を強磁性(ferromagnetic, FM)と呼ぶ。鉄やコバルトが磁石になるのは、この揃い方が起きるからだ。
この並びを、原子1個分だけ右へずらしてみる。\(\uparrow\) の次はまた \(\uparrow\) だから、ずらした先で並びは元と寸分たがわず重なる。スピンの周期は、原子の周期と同じ――原子1個分の平行移動が、位置もスピンも同時に元へ戻す。
だから強磁性では、磁気を入れても箱を選び直す必要がない。第3章で組み立てた hcp Co の原始胞――底面 \(120°\)、高さ \(c\)、Co 2個――が、そのまま磁気の箱としても使える。Co 金属の強磁性は、あの原始胞のまま始められる。スピンという属性が原子に一つ増えただけで、繰り返しの規則はそのまま保たれる。
Co 原子1個が背負う磁気モーメントの大きさは、ボーア磁子 \(\mu_\mathrm{B}\) を単位にして \(1.6\,\mu_\mathrm{B}\) 程度のオーダーである。この値の精密な議論は本書の役目ではない。ここで押さえたいのは大きさの桁ではなく、その向きが揃うか・交互かという、繰り返しに関わる一点のほうだ。
3 反強磁性 ― スピンが交互なら、箱が倍になる
次に、スピンが隣どうしで逆を向く並びを考える。
\[ \uparrow\ \downarrow\ \uparrow\ \downarrow\ \uparrow\ \downarrow\ \cdots \]
隣どうしが反平行に並んだこの状態を反強磁性(antiferromagnetic, AFM)と呼ぶ。全体としては上向きと下向きが打ち消し合い、外から見える正味の磁気はほぼゼロになる。だが内部では、スピンはきちんと規則正しく並んでいる。
この並びを、強磁性のときと同じように原子1個分だけ右へずらしてみよう。\(\uparrow\) の居た場所には \(\downarrow\) が来る。重ならない。向きが裏返ってしまうからだ。では、いくつずらせば重なるか。原子2個分ずらせば、\(\uparrow\) の場所にはまた \(\uparrow\) が戻り、ようやく元の並びに重なる。
ここに、構造と磁気のずれが現れる。原子の位置だけ見れば周期は原子1個分だが、スピンまで含めた周期は原子2個分――磁気の周期は、構造の周期のちょうど2倍である。だからこの並びを「繰り返しの最小単位」として正しく囲むには、原子2個を含む箱、すなわち構造の単位胞を2倍にした磁気単位胞が要る。
この「周期が整数倍に延びる」という現象は、本書で初めてではない。第1章で、周期をわざと延ばすために用意した箱があった――超胞である。そして第8章では、八面体回転が「酸素変位の波」として理想格子の周期を延ばし、対称性を下げて R-3c の箱を呼び込むのを見た。反強磁性が磁気単位胞を倍にする論理は、これらとまったく同じ枠にある。波が、あるいはスピンの交替が、もとの周期に乗ってより長い周期をつくる。延びた周期を囲むには、より大きな箱が要る。
磁性が単位胞を変えるとは、つまりこういうことだ。スピンの並びが構造の周期と同じ拍子なら(強磁性)、箱はそのままでよい。スピンが構造の周期より長い拍子で並べば(反強磁性)、その拍子を囲める大きな箱――磁気単位胞という超胞――を選び直す。磁性は構造に後から足す飾りではなく、どの箱を使うかを左右する条件である。
小課題 9.1
1次元の鎖に原子を等間隔で並べ、各原子にスピンを置く。(i) 強磁性 \(\uparrow\uparrow\uparrow\uparrow\uparrow\uparrow\) と、(ii) 反強磁性 \(\uparrow\downarrow\uparrow\downarrow\uparrow\downarrow\) の二つを書け。それぞれについて、「並びを自分自身に重ねる最小の平行移動は原子何個分か」を答え、磁気単位胞が構造の単位胞の何倍になるかを言え。
解答例
- 強磁性:原子1個分ずらせば \(\uparrow\) の場所にまた \(\uparrow\) が来て重なる。最小の平行移動は原子1個分で、構造の周期と同じ。よって磁気単位胞は構造の単位胞と同じ大きさ(1倍)。(ii) 反強磁性:原子1個分では \(\uparrow\) の場所に \(\downarrow\) が来て重ならない。原子2個分ずらして初めて \(\uparrow\) が \(\uparrow\) に戻る。最小の平行移動は原子2個分で、構造の周期の2倍。よって磁気単位胞は構造の単位胞の2倍になる。スピンの向きという一属性を足しただけで、繰り返しの最小単位が倍に延びる――これが「磁性が単位胞を変える」のいちばん素朴な姿である。
4 同じ Co を、Co1 と Co2 に分ける
反強磁性の鎖をもう一度見よう。\(\uparrow\) の原子と \(\downarrow\) の原子は、元素としてはどちらも同じ Co だ。けれども磁気の周期を決めるうえでは、両者は違う役回りを担っている。一方は上向き格子、もう一方は下向き格子。この二つの並び――副格子(sublattice)――は、別々に数えて初めて磁気単位胞を正しく囲める。
そこで、同じ元素でありながら、上向きの Co を \(\mathrm{Co}_1\)、下向きの Co を \(\mathrm{Co}_2\) と、二種類に分けて登録する。原子の中身(陽子の数、電子配置)は同じでも、結晶の中で果たす磁気の役割が違うのだから、繰り返しを記述するうえでは別物として扱う。第1章で「格子は同じでも基底が違えば別の結晶」と言ったのと同じ精神で、ここでは「元素は同じでもスピンの役割が違えば別の原子種」として書き分ける。
flowchart LR
Co["元素としては<br>同じ Co"] --> S1["副格子 1(Co1)<br>スピン上向き ↑"]
Co --> S2["副格子 2(Co2)<br>スピン下向き ↓"]
S1 --> M["二つを別種として<br>登録して初めて<br>磁気単位胞が書ける"]
S2 --> M
style S1 fill:#d1ecf1,stroke:#17a2b8
style S2 fill:#d1ecf1,stroke:#17a2b8
小課題 9.2
反強磁性 \(\uparrow\downarrow\uparrow\downarrow\) の鎖を、同じ Co 一種類だけで「上向き・下向きの区別なし」に登録したとする。このとき、計算機はこの結晶を強磁性と反強磁性のどちらと見分けられるか。なぜ同じ元素を \(\mathrm{Co}_1,\mathrm{Co}_2\) の二種類に分ける必要があるのかを、磁気単位胞の言葉で説明せよ。
解答例
本書のやり方――原子種ごとに初期スピンを与える枠組み――では、区別なしに Co 一種類で登録すると、原子はどれも「ただの Co」になり、上向きと下向きを別々に指定する手がかりが残らない。すると上向き格子と下向き格子の差を初期条件に書き分けられず、反強磁性をねらって計算を始めにくい。そこで上向きの Co と下向きの Co を別の原子種 \(\mathrm{Co}_1,\mathrm{Co}_2\) として分け、それぞれに逆向きの初期スピンを与える。こうして初めて、磁気の周期が構造の周期の2倍であること――磁気単位胞が2倍であること――が記述に乗る。磁性は、原子の数だけでなく、登録する原子種の数まで変えることがある。次節で、これが計算機の入力にそのまま現れるのを見る。
5 スピン状態と構造は切り離せない ― LaCoO₃ の場合
ここまでは、スピンの「向き」が周期に食い込む話だった。実物質 LaCoO₃ では、もう一段深い結びつきが現れる。スピンの「大きさ」そのものが、構造と手を結ぶのだ。
第7章で見たように、LaCoO₃ の Co は酸素6個に囲まれた八面体 CoO₆ の中央に座り、その八面体が Co の電子に結晶場をかけていた。結晶場は Co の \(d\) 電子の入り方を左右する。電子の入り方が変われば、原子が背負うスピンの合計――スピン状態――も変わる。LaCoO₃ の Co では、スピンをできるだけ打ち消す低スピン、中ほどの中間スピン、最大限に開いた高スピンという、複数のスピン状態が近いエネルギーで競い合うことが知られている。
肝心なのは、このスピン状態が八面体の大きさと連動する点だ。スピンを大きく開けば Co のイオンは膨らみ、Co–O 距離が伸びて八面体がふくらむ。低スピンに畳めば、八面体は縮む。スピン状態と八面体の形は、一方を決めればもう一方も動く、切り離せない対になっている。第7章で測った Co–O 距離や O–Co–O 角という局所構造量は、ここでスピンの言葉とつながる。構造を見ればスピンが、スピンを決めれば構造が、互いを語り始める。
LaCoO₃ のスピン状態がどの温度でどう移り変わるか、その精密な決着は本書の射程の外にある。ここでは「構造とスピンは切り離せない」という一点を定性的に置くにとどめ、低スピンと高スピンで八面体がどう呼吸し、それが磁性や比熱にどう響くかという本格的な議論は、姉妹本にゆずる。スピン状態と八面体・結晶場の絡み合いは『LaCoO₃ の構造とスピン状態』が、その研究史の歩みは『LaCoO₃ の物語』が、それぞれ正面から扱う。本書はその橋の手前まで、読者を運ぶ。
6 構造を物理へ渡す ― QE のスピン
組み立てた磁気の並びを、計算機に渡してみよう。第3章で hcp Co の箱を QE(Quantum ESPRESSO)の数行に落としたときは、スピンを横に置いていた。ここで、その一行を書き足す。
スピンを計算に入れるかどうかは、nspin という指定で切り替わる。既定の nspin=1 は上向きと下向きを区別しない計算で、第3章まではこれで足りていた。磁性を扱うときは nspin=2 とし、上向き電子と下向き電子を別々に勘定するスピン分極計算に切り替える。これが、計算機に「この結晶は磁石かもしれない」と告げる一行である。
向きの初期値は starting_magnetization で与える。これは原子種ごとに渡す初期磁化で、正なら上向き、負なら下向きを意味する。ここで前節の書き分けが効いてくる。
強磁性の Co 金属なら、原子種は Co 一つで足りる。第3章の入力に二行を足すだけでよい。
&system
ibrav = 4
A = 2.51
C = 4.07
nat = 2
ntyp = 1
nspin = 2
starting_magnetization(1) = 0.5 ! Co を上向きスピンで始める
/
ATOMIC_POSITIONS crystal
Co 0.000000 0.000000 0.000000
Co 0.333333 0.666667 0.500000
スピンが揃う強磁性では、第3章の原始胞(原子種 1、原子 2 個)がそのまま使える。starting_magnetization を一種類ぶん与えるだけだ。
反強磁性を同じ枠組みで扱うには、前節で見たとおり、同じ元素を二つの原子種に分ける。上向きの \(\mathrm{Co}_1\) と下向きの \(\mathrm{Co}_2\) を別の ATOMIC_SPECIES として登録し、starting_magnetization を符号違いで与える。QE の入力では、これは原子種の数 ntyp を 1 から 2 へ増やすことを意味する。
&system
ibrav = 0 ! 箱は磁気周期に合わせた(構造の2倍の)超胞
nat = 2
ntyp = 2 ! 同じ Co を 2 種類に分ける
nspin = 2
starting_magnetization(1) = 0.5 ! Co1 を上向き
starting_magnetization(2) = -0.5 ! Co2 を下向き
/
CELL_PARAMETERS angstrom
... ! 反強磁性の周期に合わせた格子ベクトル
ATOMIC_SPECIES
Co1 58.93 <Co の擬ポテンシャル>
Co2 58.93 <同じものを指定> ! 中身は同じ。別種にするのはスピンのため
ATOMIC_POSITIONS crystal
Co1 0.000000 0.000000 0.000000
Co2 0.000000 0.000000 0.500000 ! 磁気周期に合わせた箱の中に配る
Co1 と Co2 は、中身も質量も同じ――元素としては同じ Co である。それでも別の種として登録するのは、ひとえに逆向きのスピンを与え、磁気の周期を記述に乗せるためだ。これが「磁性が原子種の数すら変える」具体例である。同じ元素を二種類に分ける、というのは前節で紙の上に書いたことだったが、それが計算機の入力で ntyp=2 という一文字の違いになって現れる。
nspin=2 がスピン分極計算への切り替え、starting_magnetization が原子種ごとの初期磁化(正で上向き、負で下向き)。強磁性なら原子種は一つで足り、第3章の箱がそのまま使える。反強磁性を扱うには、同じ Co でも副格子ごとに別の原子種として定義し(ntyp が増える)、逆向きの初期磁化を与える。磁性は、原子の位置でも種類でもなく、ときに箱の大きさと原子種の数を変える条件として、計算機の入力に刻まれる。
本章の背骨を一枚にまとめておこう。図 3 で、スピンが揃う強磁性なら箱はそのまま、交互の反強磁性なら箱が2倍に延びて Co1・Co2 の書き分けが要る、という対比を一目で見渡せる。
よくある誤解
反強磁性は「磁気が打ち消し合うから、磁性のない状態」と読まれやすい。外から見える正味の磁気がほぼゼロなのは確かだが、内部ではスピンが規則正しく交互に並び、れっきとした磁気秩序をもつ。正味ゼロと無秩序は別物だ。むしろ、その秩序が構造より長い周期をもつからこそ、より大きな磁気単位胞が要る。「正味ゼロ=何も起きていない」ではなく、「正味ゼロでも、箱を変えるほどの秩序がそこにある」と読む。
7 この章の到達点と、終章へ
磁性が結晶の繰り返しに食い込む様子を、ひととおり見た。スピンが揃う強磁性では、磁気の周期は構造の周期と同じで、第3章の hcp Co の原始胞がそのまま磁気の箱になる。スピンが交互に並ぶ反強磁性では、磁気の周期が構造の2倍に延び、超胞としての磁気単位胞が要る。そのため同じ Co を \(\mathrm{Co}_1,\mathrm{Co}_2\) の二つの副格子に書き分け、QE では nspin=2 と符号違いの starting_magnetization、そして ntyp の増加として記述する。実物質 LaCoO₃ では、スピンの向きだけでなく大きさ――スピン状態――までが八面体の形と切り離せず結びつき、その本格的な探究は姉妹本へ続く。
これで第3章に残した含みは回収された。磁性は、組み上げた構造に後から足す飾りではない。ときに単位胞そのものを、原子種の数すらも選び直させる条件である。
第1章から第9章まで、私たちは結晶を「格子ベクトルと基底」に畳むことから始め、分率座標・逆格子・ブリルアンゾーン・k点・八面体・スピンへと、構造を物理へ翻訳する言語を一語ずつ手に入れてきた。終章では、この言語が四冊の姉妹本でどう使われ、構造の理解が物性の予測や設計へどうつながるかを、地図として描き直す。結晶を物理へ翻訳する、という背骨の問いに、最後の一筆を入れる。