2  格子ベクトルと基底

無限に並ぶ原子を、計算機はどうやって有限のデータで「持つ」のか。
そして、その有限のデータとは、具体的に何と何なのか。

この章のゴール:無限に続く結晶を「箱の中身(基底)」と「箱を並べる規則(格子ベクトル)」の二つに畳めると説明でき、同じ結晶を原始胞でも慣用胞でも超胞でも表せることを言えるようになる。

結晶を物理へ翻訳する、と本書は言った。だが翻訳を始める前に、原文をこちらの手元に持ってこなければならない。その原文――結晶という物質――は、困ったことに無限に大きい。米粒ほどの一片にも、原子は天文学的な数で並んでいる。一つずつ座標を書き留めるのは、人にも計算機にも、はじめから無理な相談だ。

それでも、この先の章で開く計算機の入力は、たった数行で結晶ひとつを言い切ってしまう。なぜそんな芸当ができるのか。鍵は、結晶という言葉そのものの中にある。

1 繰り返しがあれば、無限は数件で足りる

結晶とは、原子が規則正しく――同じ並びを保ったまま――どこまでも繰り返している状態のことだ。床に敷きつめたタイルを思い浮かべるとよい。広間いっぱいのタイルを覚えるのに、一枚ずつ記憶する人はいない。「この一枚」の柄と、「縦と横にこれだけずらして敷く」という規則。この二つさえあれば、床はいくらでも再現できる。

結晶も同じである。空間のある場所に見える原子の並びが、そこから決まった距離だけ平行移動した先でもそっくり同じなら、すべての原子を覚える必要はない。ひとつの「箱」の中身と、その箱を並べる規則――この二つに、無限が畳み込まれている。

flowchart LR
    A["無限に続く結晶<br>原子は数えきれない"] -->|繰り返しで畳む| B["箱の中身<br>(基底)"]
    A -->|同じ規則で並べる| C["並べる規則<br>(格子ベクトル)"]
    B --> D["有限のデータで<br>結晶が決まる"]
    C --> D
図 1: 繰り返しのたたみ込み。無限に続く結晶は、ひとつの箱(中身)と「並べる規則」に分けて持てる。

ここで効いているのは、結晶がもつ並進対称性――「決まった距離だけずらすと自分自身に重なる」という性質である。結晶はこれを独立な三つの方向にもっている。だからこそ、無限に広い対象でありながら、ほんの数件のデータで言い尽くせる。逆に、ガラスや液体のように正確な繰り返しをもたない並びでは、この畳み込みが効かない。結晶のありがたみは、まさにこの繰り返しが、記述を数件にまで切り詰めてくれる点にある。

では、その「箱」と「規則」を、数でどう書くかを決めよう。

2 箱を数で書く ― 格子ベクトル

箱の形と大きさは、3本のベクトル \(\mathbf{a}_1,\ \mathbf{a}_2,\ \mathbf{a}_3\) で決まる。この3本が箱の三辺を張る。そして、箱を並べる規則もまた、この同じ3本が与える。箱の角から隣の箱の角へ飛ぶ平行移動は、3本を整数回ずつ組み合わせた

\[ \mathbf{R} = n_1\mathbf{a}_1 + n_2\mathbf{a}_2 + n_3\mathbf{a}_3 \qquad (n_1, n_2, n_3 \in \mathbb{Z}) \]

で書ける。整数 \(n_i\) を動かせば、箱のコピーが空間を隙間なく埋めていく。この \(\mathbf{R}\) が指す点の集まりを格子(lattice)、3本のベクトルを格子ベクトルと呼ぶ。

ここで一つ、整数 \(n_i\) が効いていることに注意したい。係数が整数だからこそ、\(\mathbf{R}\) は「箱ひとつ分、きっちり」の平行移動になる。半端な平行移動を許せば、ずらした先で並びは元と重ならない。整数倍の並進だけが結晶を自分自身に戻す――この一点が、後で結晶を波として見るとき(第4章)に、そのまま効いてくる。いまは心にとめておけばよい。

最も単純なのは、箱が立方体の場合だ。一辺の長さを \(a\) とすれば、

\[ \mathbf{a}_1 = (a,0,0),\quad \mathbf{a}_2 = (0,a,0),\quad \mathbf{a}_3 = (0,0,a) \]

と、長さ \(a\) ひとつで形も大きさも決まる。だが箱はいつも立方体とは限らない。三辺の長さが違ってもよいし、辺どうしが直角でなくてもよい。本書で後に出会う Co の結晶(第3章)は、二辺が \(120°\) で交わる六方晶だ。格子ベクトルという言い方をするのは、まさにこの自由――箱が斜めでもよい――を最初から許しておくためである。

3 中身を数で書く ― 基底

格子は、あくまで「並びの規則」を表す数学的な点の集まりにすぎない。格子点に原子が居ると決まっているわけではない。原子は基底(basis)として、各格子点に「ぶら下げる」かたちで配る。

結晶を「置く」とは、煎じ詰めれば二つを決めることである。

  1. 格子ベクトル \(\mathbf{a}_1,\mathbf{a}_2,\mathbf{a}_3\) ― 箱の形と大きさ、そして並べる規則。
  2. 基底 ― 箱ひとつの中に、どんな原子をどこに配るか。

残りの無限は、並進の規則 \(\mathbf{R}\) が引き受ける。

格子と基底を分けて持つ、という見方が、この本ではずっと効く。なぜ分けるのか。同じ格子(同じ並べ方の規則)の上に、違う基底を載せれば、違う結晶になるからだ。本書で出会う例でいえば、基底1個の単純な金属、基底2個の hcp Co(第3章)、基底5個の理想ペロブスカイト(第7章)――もっとも、基底の原子数だけで構造が決まるわけではなく、格子のとり方も併せて変わる。並べ方の規則は使い回し、中身だけ差し替える。この分業が、Co から LaCoO₃ まで一本の線でたどれる理由になる。

flowchart TB
    L["格子<br>並べる規則(点の集まり)"] --> X["結晶"]
    B["基底<br>箱の中身(原子のまとまり)"] --> X
    X --> E1["基底1原子 → 単純な金属"]
    X --> E2["基底2原子 → hcp(第3章)"]
    X --> E3["基底5原子 → ペロブスカイト(第7章)"]
図 2: 結晶 = 格子(並べる規則)+ 基底(並びに載せる中身)。同じ格子に違う基底を載せれば、違う結晶になる。

小課題 1.1

2次元で、正方形の格子(一辺 \(a\))を方眼紙に手で描け。格子点を9個ほど打ったら、各格子点に「●を1個」載せた結晶と、「●を左下に、○を中央に2個」載せた結晶の二つを描き分けよ。二つの結晶で、格子は同じか/基底は同じかを一言で答えよ。

解答例

格子はどちらも同じ正方格子である(並べる規則=点の打ち方は変えていない)。違うのは基底だけで、前者は1原子、後者は2原子を各格子点にぶら下げている。つまり二つは「同じ並べ方に、違う中身を載せた」関係にある。並べ方の規則を使い回し、中身だけ差し替える――この章の主張が、自分の手で一度確かめられたことになる。

4 箱の選び方には自由がある ― 原始胞・慣用胞・超胞

ここまでで「箱と中身」がそろった。だが、同じ結晶を表す箱の取り方は一通りではない。同じ床を敷きつめるのに、タイルの切り取り方が何通りもあるのと同じだ。三つの代表的な取り方を、名前とともに区別しておこう。後の章で、どれを選ぶかが計算の手間や見通しを左右する。

  • 原始胞(primitive cell):繰り返しの最小単位まで切り詰めた箱。中に格子点をちょうど1個分だけ含む。いちばん小さく、計算は軽いが、形が斜めで対称性が目に見えにくいことがある。
  • 慣用胞(conventional cell):対称性が目で見て分かりやすいように選んだ、やや大きめの箱。立方体や六角柱など、座りのよい形をとる。原始胞より大きく、格子点を複数個含むことがある。
  • 超胞(supercell):慣用胞や原始胞を整数倍にわざと大きくとった箱。一見むだだが、繰り返しの周期そのものを変えたいとき(第8章の八面体回転、第9章の反強磁性)に、これが要る。

言葉だけではつかみにくいので、同じ一つの格子を三通りに切ってみよう(図 3)。点はどれも同じ並び――同じ結晶――である。変えているのは、それを囲む箱の取り方だけだ。

図 3: 同じ2次元格子(黒点)を三通りに切る。左の原始胞は格子点をちょうど1個分だけ含む最小の箱で、ここでは斜めのひし形になる(最小だが対称性は目に見えにくい)。中央の慣用胞は同じ格子を直角の長方形で囲んだもので、中心にもう1点を含んで格子点2個分。斜めでないぶん対称性が目で見て分かりやすい。右の超胞は慣用胞を \(2\times2\) に整数倍した箱で、周期をわざと延ばしたいとき(第8章・第9章)に使う。三つは同じ格子を別の箱で囲んだだけで、結晶そのものは何も変わっていない。
flowchart LR
    C["同じ結晶"] --> P["原始胞<br>最小・格子点1個分<br>計算は軽い"]
    C --> V["慣用胞<br>対称性が見やすい<br>やや大きい"]
    C --> S["超胞<br>整数倍に拡大<br>周期を変えたいとき"]
図 4: 同じ結晶を表す三つの箱。最小の原始胞、対称性が見やすい慣用胞、周期をわざと延ばした超胞。

大事なのは、どれを選んでも同じ無限結晶を敷きつめるという点だ。箱の取り方は人間の都合であって、結晶そのものは変わらない。にもかかわらず、取り方しだいで「見やすさ」と「計算の重さ」が変わる。だから結晶を置くときは、いつも「いま自分はどの箱を選んでいるのか」を意識する。この問いは、第3章で hcp Co を二通りに書くとき、第6章で k点の数を見積もるとき、そして第8章で周期が延びる構造を扱うときに、繰り返し戻ってくる。

よくある混同

「格子点の数」と「原子の数」を取り違えやすい。格子点は並べ方の規則を表す点であって、そこに原子が何個載るかは基底が決める。慣用胞に格子点が4個分入っていても、基底が2原子なら原子は \(4\times2=8\) 個になる。格子点の数 × 基底の原子数 = 箱の中の原子数――この掛け算を、いつも分けて数える。

5 この章の到達点

無限に続く結晶を、私たちは二つのデータに畳んだ。並べる規則を表す格子ベクトルと、箱に載せる基底である。そして、その箱の取り方には原始胞・慣用胞・超胞という自由があり、どれを選んでも結晶そのものは変わらないが、見やすさと計算の重さは変わることを見た。

次章では、この箱の中で原子の位置をどう書き表すかを決める。立方体なら座標は素直だが、箱が斜めに傾いていたらどうするか。そこで登場するのが、箱に張りついた「住所」――分率座標である。