9  実 LaCoO₃ へ

本物の LaCoO₃ は、おもちゃの立方晶からどこがずれているのか。
そのずれを、第4章で身につけた「波として見る目」で読み直せるか。

この章のゴール:理想立方ペロブスカイトから対称性が下がること(菱面体 R-3c・CoO₆ 八面体の回転)を説明でき、八面体回転を「理想格子に重なる酸素変位の波」として読めるようになる。構造相転移や八面体回転は、実空間では原子のずれ、逆空間では特定の波数をもつ歪みとして見える――この一文を自分の言葉で言えるようにする。

前章で、A・B・O₃ という五つの原子を立方体の箱に詰めて、理想ペロブスカイトという「おもちゃの結晶」を組み立てた。La が箱の角、Co が中心、酸素 O が六面の中央に座り、Co を六個の酸素が真っ直ぐ取り囲んで CoO₆ 八面体をつくる。Co–O–Co の並びは、隣の八面体までまっすぐ \(180°\) で貫いていた。見通しのよい、対称性の高い構造である。

だが、この立方ペロブスカイトは教育用の足場にすぎない。本物の LaCoO₃ を中性子回折や X 線で調べると、酸素はこの理想位置から少しずれ、八面体はわずかに回転している。立方晶のもっていた高い対称性は、実物質ではいくらか下がる。本章の仕事は、このずれを「ばらばらな乱れ」としてではなく、理想格子の上に重なった一つの規則的な変位として読むことだ。そしてその規則を、第4章で結晶を波として見たあの目で、もう一度とらえ直す。

1 理想からのずれは、八面体の傾きに現れる

まず、何がどうずれるのかをはっきりさせよう。LaCoO₃ で動くのは、おもに酸素である。Co は八面体の中心に居すわり、La も箱の骨組みに留まる。動くのは Co を取り囲む六個の酸素で、これが少し横にずれることで、CoO₆ 八面体が剛体のままわずかに回る。八面体そのものの形(Co–O 距離や O–Co–O 角)は大きくは変わらず、八面体がまるごと傾くと見るのがよい。

八面体が傾くと、何が起きるか。理想立方晶では Co–O–Co が一直線 \(180°\) だった。八面体が回れば、その回転に引きずられて酸素が直線から外れ、Co–O–Co 角は \(180°\) よりやや小さくなる。角が折れる、と言ってもよい。どれだけ折れるかの精密な値は温度にもよるので、ここでは「\(180°\) からわずかに外れる」という定性で押さえておく図 1 に、その傾きの実空間での姿を描いた。

図 1: 角共有した CoO₆ 八面体(中心の青が Co、頂点の赤が O)の鎖。上段の理想では八面体が真っ直ぐ並び、共有する酸素は二つの Co を結ぶ直線の上に乗って Co–O–Co は \(180°\)。下段の傾いた鎖では、隣り合う八面体が逆向きに回る(赤い矢印が回転の向き)。八面体は剛体のまま回るので、共有する橋渡しの酸素が直線から上・下・上…と交互に押し出され、Co–O–Co の並びがジグザグに折れて \(180°\) より小さくなる。八面体そのものの形(Co–O 距離や O–Co–O 角)はほとんど変わらず、まるごと傾いているだけだ。この交互の上下が、次節で「酸素変位の波」として読み直される。

よくある誤解

「対称性が下がる」を「構造が乱れて格子が崩れる」と読みかえてしまうことがある。そうではない。LaCoO₃ はあいかわらず端正な結晶であり、原子は規則正しく並んでいる。下がるのは、その規則がもつ対称操作の数である。立方晶のときに許されていた操作のいくつかが、八面体が傾いたぶんだけ成り立たなくなる――それが「対称性が下がる」の意味だ。崩れではなく、規則の格上げ/格下げの問題である。

flowchart LR
    A["理想立方ペロブスカイト<br>Co–O–Co = 180°<br>5原子セルで足りる"] -->|酸素が理想位置からずれる| B["CoO₆ 八面体が傾く<br>Co–O–Co < 180°"]
    B -->|隣の八面体は逆向きに回る| C["変位パターンの周期が延びる<br>5原子セルでは表せない<br>→ 超胞が要る(第1章)"]
図 2: 理想立方晶から実 LaCoO₃ へ。酸素が理想位置からずれて八面体が傾き、Co–O–Co 角が 180° から外れる。隣り合う八面体が逆向きに回ると、変位パターンの周期が元の単位胞より延び、5原子セルでは表せなくなる。

2 傾きを「酸素変位の波」として読む

ここからが本章の山場である。酸素のずれを、一つひとつの原子の移動としてではなく、理想格子の上に重なった一枚の波として見る。

理想立方晶を下敷きにして、各酸素が理想位置からどちらへどれだけずれたかを、矢印で書き込んでいくと想像してほしい。八面体が傾いているのだから、矢印はばらばらではなく、ある向き・ある大きさで規則的に並ぶ。隣の八面体へ移ると、矢印の向きが反転する。さらにその隣でまた戻る。ずれの向きが、格子に沿って規則的に振動している――これはまさに、第4章で扱った正弦波の姿だ。横軸に格子点、縦軸に酸素の変位をとれば、変位は周期的な波として描ける。

八面体回転とは、理想格子の上に重なった酸素変位の波である。実空間では、それは酸素が理想位置からずれた矢印の集まりに見える。逆空間では、それはある特定の波数をもつ歪みに見える。実物質の構造相転移や八面体回転は、この二つの顔をもつ。

第4章で、私たちは結晶を波として見る目を手に入れた。結晶の周期に同期する波 \(\mathbf{G}\) と、ブリルアンゾーンの中で状態を分類する波数 \(\mathbf{k}\) とを、別物として区別したのを思い出してほしい(記号の区別は付録の記号集を参照)。八面体回転による酸素変位の模様も、この逆空間の言葉で言い表せる。ただしそれは \(\mathbf{G}\) ではなく、ブリルアンゾーンの中の特定の一点に対応する波数をもつ歪みだ。酸素変位が「二つの八面体ごとに一周する」とき、その波数はゾーンの端のある一点に決まる。実空間で見れば原子のずれ、逆空間で見ればその一点に立つ歪み――同じ一つの現象の、表と裏である。図 3 に、この酸素変位の波を描いた。隣の八面体ごとに変位の向きが反転し、模様は二つの八面体ぶんでようやく一周する。

図 3: 八面体回転を「酸素変位の波」として見る。横軸は Co の並び(格子点、青)、縦軸は酸素の理想位置(\(0\) の線)からの変位。灰色の矢印が各酸素のずれで、隣の八面体ごとに符号が反転する。変位の模様は二つの八面体ぶん(\(2a\))でようやく一周する――これが周期の倍化であり、第1章の超胞が要る理由になる。実空間のずれと、逆空間の特定の波数とが、同じ一つの現象の表と裏である。

ここで第1章の超胞が効いてくる。隣り合う八面体が逆向きに回ると、変位の波は二つの八面体ぶんでようやく一周する。つまり、ずれの模様が元どおりに戻るまでの距離が、元の単位胞より延びる。元の5原子セルは「Co–O–Co が一直線」を前提に切り出した最小の箱だったから、向きが反転しながら進む変位の波を、その小さな箱の中だけでは書き表せない。周期が延びたぶん、より大きな箱――超胞――が要る。第1章で「周期をわざと延ばしたいときに超胞が要る」と予告したのは、まさにこの場面のためだった。

flowchart TB
    Q["隣の八面体は<br>同じ向きか逆向きか?"] --> S["同じ向きに回る<br>変位は1つ分で一周<br>元の周期で足りる"]
    Q --> O["逆向きに回る<br>変位は2つ分で一周<br>周期が延びる → 超胞"]
図 4: 隣り合う八面体の回転が逆向きだと、変位パターンが元に戻るまでの距離が延びる。同じ向きなら元の周期で足りるが、逆向きだと二つ分でようやく一周し、より大きな箱が要る。

小課題 8.1

理想 ABO₃ の一辺に沿った酸素の並びを、横一列の「●―●―●―●」として方眼紙に描け(●が酸素、間の Co は省略してよい)。 (1) 理想立方晶では、この酸素はどれも理想位置にあり、Co–O–Co は \(180°\) である。これを基準線として描け。 (2) いま、八面体が交互に逆向きに回ったとして、各酸素を理想位置から上・下・上・下…と交互にずらして描き直せ。 (3) ずらした後、Co–O–Co の並びは直線のままか、折れるか。そして、ずれの模様が元どおりに戻るまでに、酸素いくつ分すすむ必要があるかを答えよ。

解答例

  1. で上・下・上・下…とずらすと、(3) の Co–O–Co の並びはジグザグに折れ、角は \(180°\) から外れる。これが八面体回転の実空間での姿である。ずれの模様(上・下…)が元の「上」に戻るのは、二つ分すすんだ後だ。つまり変位の波の周期は、酸素一つ分ではなく二つ分になっている。元の単位胞は一つ分を最小単位に切り出していたから、この波を収めるには周期が二倍に延びた箱が要る。実空間の交互のずれが、そのまま「周期が延びる=超胞が要る」につながることを、手を動かして確かめられた。

3 実空間のずれ、逆空間の歪み

小課題で見たことを、本章の中核メッセージとして言い直しておこう。八面体回転という一つの現象は、二つの見え方をもつ。

  • 実空間では、酸素が理想位置からずれた矢印の集まりとして見える。Co–O–Co 角が \(180°\) から折れ、八面体が傾く。
  • 逆空間では、特定の波数をもつ歪みとして見える。変位が二つの八面体ごとに一周するなら、その波数は決まった一点に対応する。

第5章で逆格子ベクトルを正面から扱ったとき、私たちは結晶の周期と逆空間の点が一対一で対応することを見た。八面体回転は、その対応を構造の変形の側から照らし直す。周期が延びれば、逆空間では対応する点が新たに現れる。構造相転移を「逆空間のどこに歪みが立つか」で分類できるのは、この対応のおかげである。実空間の原子のずれと、逆空間の波数――どちらか一方だけを見るより、二つを重ねて見るほうが、構造の変形ははるかに読みやすい。

小課題 8.2

隣り合う八面体が「同じ向き」に回る場合と「逆向き」に回る場合を考える。それぞれについて、酸素変位の波の周期が元の単位胞と比べてどうなるか(変わらない/延びる)を答え、超胞が要るのはどちらかを波の言葉で説明せよ。

解答例

同じ向きに回る場合、すべての八面体で変位の向きがそろうので、変位の波は元の八面体一つ分で一周する。周期は元の単位胞と変わらず、超胞は要らない。逆向きに回る場合、変位は八面体二つ分でようやく一周するので、波の周期が二倍に延びる。元の単位胞ではこの波を表しきれず、周期が延びたぶんの超胞が要る。要点は、超胞が要るかどうかが「酸素変位の波の周期が元の単位胞に収まるか」で決まる、という一点である。逆向きの回転=周期の延長=超胞、と一本につながる。

4 構造の名前を引く ― R-3c と二通りの箱

ここまでメカニズムを押さえたうえで、この構造に付いている名前を、辞書を引くつもりで最小限だけ確認しておく。暗記する必要はない。必要になったら引けばよい、という距離感でよい。

実 LaCoO₃ の構造は菱面体晶で、空間群の記号は R-3c(空間群番号 167)である。八面体が交互に逆向きに傾いたぶん、立方晶より対称性が下がり、この菱面体の対称性に落ち着く。空間群とは、その構造がもつ対称操作(回転・並進・鏡映などの組み合わせ)の一覧に付けた背番号だと思えばよい。八面体の傾き方には、回転軸と隣どうしの位相に応じた分類(Glazer の記法)や、六方軸で数えた箱の原子数(Pearson 記号 hR30)といった、より細かい言葉もある。だがそこまでは、必要になってから引けばよい。

ここで第1章の「箱の取り方には自由がある」が戻ってくる。R-3c の構造は、二通りの箱で書ける。

  • 菱面体の原始胞(rhombohedral primitive cell):繰り返しの最小単位まで切り詰めた、斜めの箱。式の数が少なく計算は軽いが、形が傾いていて対称性は目で見えにくい。逆向きの傾きを取り込んだぶん、この原始胞には化学式 LaCoO₃ が二つ分(原子 10 個)入る。理想立方晶の5原子セルがちょうど二倍に延びた、と読める。
  • 六方軸の慣用胞(hexagonal setting):対称性が目で見て分かりやすいように選んだ、大きめの箱。六方軸では原子が 30 個(化学式六つ分)入り、これが Pearson hR30 の 30 にあたる。

同じ一つの結晶を、原始胞でも慣用胞でも書ける。どちらを選んでも結晶そのものは変わらず、見やすさと計算の重さが変わるだけだ――第1章の原始胞・慣用胞の話が、実物質でそのまま効いている。CIF(結晶構造を記したファイル)や Wyckoff 位置の表は、この「La はどこ・Co はどこ・O はどうずれているか」を分率座標で書き留めたものにすぎない。読むときの構えは一つでよい。理想 ABO₃ と並べて、酸素がどちらへどれだけずれたか、Co–O–Co 角がどれだけ折れたかを観察する。それさえできれば、辞書の細目は必要に応じて引けばよい。

よくある誤解

理想立方ペロブスカイトと実 LaCoO₃ を同じものとして扱ってしまうことがある。理想立方晶はあくまで足場であり、計算や説明の出発点としては便利だが、本物の構造そのものではない。格子定数・Co–O–Co 角・八面体の傾き角といった精密な値を引用するときは、必ず実測の出典を確認し、理想モデルの数値で代用しない。モデルと実物質の境目を、いつも意識しておく。

5 QE に渡すには ― 超胞と、何を固定し何を動かすか

最後に、この実構造を第一原理計算(QE)に渡す場面を、ライトに一度だけ見ておこう。理想立方晶なら 5 原子の小さなセルで足りたが、逆向きの八面体回転を取り込むには、周期が延びたぶんのより大きなセル(超胞)が要る。箱が斜めの菱面体なので、ibrav で型番号を指定するより、CELL_PARAMETERS で格子ベクトルを直接書き下すほうが素直なことが多い。原子位置は、いつもどおり ATOMIC_POSITIONS crystal に分率座標で並べる。理想からずれた酸素の座標こそが、八面体回転の正体だった。

もう一歩進むと、構造緩和という発想が出てくる。理想位置から少しずらした構造を出発点に置き、原子に働く力がゼロに近づくまで位置を動かして、本物の平衡構造を探す。このとき効くのが「何を固定し、何を動かすか」の切り分けだ。たとえば箱の形(格子ベクトル)は実測値に固定し、中の酸素だけを動かして傾き角を決める、という進め方ができる。固定と可動の線引きが、計算で「何を問うているか」を決める――この発想は、姉妹本でフォノンや構造相転移を扱うときに、繰り返し戻ってくる。

6 この章の到達点

理想立方ペロブスカイトは足場にすぎず、実 LaCoO₃ では酸素が理想位置からずれて CoO₆ 八面体が傾き、Co–O–Co 角が \(180°\) からわずかに折れること、その結果として菱面体 R-3c(空間群 167)に対称性が下がることを見た。そして本章の核として、八面体回転を理想格子の上に重なった酸素変位の波としてとらえ直した。隣り合う八面体が逆向きに回ると、変位の波の周期が延び、5原子セルでは表せず超胞が要る(第1章)。同じ現象が、実空間では原子のずれ、逆空間では特定の波数の歪みとして見える(第4・5章で養った波の目の回収)。R-3c は原始胞でも六方軸の慣用胞でも書け、CIF は「どこがどうずれたか」を分率座標で書き留めた辞書だった。

次章では、この「単位胞が変わる」という事件が、磁性でもう一度起きる。反強磁性のように、Co のスピンが交互に反転して並ぶと、構造は同じでも磁気的な周期が延び、磁気単位胞が要る。八面体回転で周期が延びたのと同じ論法が、今度はスピンの向きで立ち現れる。

LaCoO₃ の構造とスピン状態を、より深く――八面体の傾きが結晶場やスピン状態とどう結びつくかまで――追いたい読者は、姉妹本『LaCoO₃ の構造とスピン状態』へ、この物質をめぐる研究の歩みを知りたい読者は『LaCoO₃ の物語』へ進むとよい。本章で身につけた「実構造を理想からのずれとして、波として読む」目が、その入口になる。